インパール作戦
インパール作戦 悲惨な戦場でした。ビルマあたりまでは「南方資源獲得」とかの理由もわからないでは無いですが、インパール ️となると「ゴール」はなんだったのですか?
ベストアンサー
失礼ながら近視眼的な回答ばかりですね。援蒋ルート切断、インド征服、英印軍阻止、、、あの時期にそんな事をしても日本の主敵であるアメリカとの戦争には何の役にも立ちません。以下、私の過去回答を書かせて頂きます。 ウ号作戦(通称インパール作戦)は一時保留されていましたが、東條英機の腰巾着だった牟田口廉也中将が勲章を貰って大将になりたくて参謀総長を兼務した東條に泣きついて承認を取ったものでしょうね。それがインパール作戦の「ゴール」でした。 作戦開始が1944年3月でしたが、当時の戦況は、、、 1943年2月:ガダルカナル惨敗 4月18日:山本五十六聨合艦隊司令長官戦死 5月29日:アッツ島玉砕 9月:マッカーサー軍ニューギニア猛攻、ラエ陥落 11月23日:マキン、タラワ玉砕 1944年2月6日:クェゼリン島玉砕 2月17日:トラック島大空襲 2月23日:ブラウン環礁玉砕 ●3月4日:インパール作戦開始 6月15日 米軍サイパン島上陸 6月19日 マリアナ沖海戦、日本完敗 主戦場の太平洋方面で米軍の二ミッツ・ライン、マッカーサー・ラインの二本の線でがんがん攻められている時、日本陸軍はビルマの奥地に大兵力を送り込んで何をしようとしたのでしょうか? 軍事オンチの近衛文麿ですら「東の方で海軍の旗色が悪いのに、ビルマ戦線を広げてうまく行く見込みがありますか?」と言ったそうです。 主戦場である太平洋で敗戦続き。インドの奥地でイギリス・インド混成軍を倒して援蒋ラインを切断しても、日本の戦争目的には寄与しなかったでしょうね。それで主敵であるアメリカに勝てたわけはありません。 総理大臣・陸軍大臣としてあの戦争を始め、実戦部隊の最高司令官である参謀総長まで兼任した東條英機はどういう目的であの時期にこの様な大作戦を許可したのでしょうか?一体どこの国と戦争していると思っていたのでしょうか?理解に苦しみます。 牟田口の無能、無責任は余りにもひど過ぎて書くのも不愉快ですが、、、 作戦開始に先立ち、牟田口はこう言ったそうです、「英軍に出会ったら空に向けて空砲を三発撃て。そうしたら英軍は逃げていくことになっておる!」、と。 気が狂っていたのですね。結果は御存知の様に航空支援、戦車、大砲、補給などすべての面で圧倒的に劣勢だった日本軍は惨敗。いくら負けても牟田口は敗戦を受け入れず、既にボロボロになっている前線部隊に攻撃続行を強制。牟田口自身は後方の安全な司令部から動かず、芸者を連れてきてドンチャン騒ぎ。 やっと撤退を許した段階では日本軍は既に総崩れ。雨季のビルマで増水した川を渡る為の舟艇すらまともに無く、おびただしい数の日本兵が流されていった。日本軍が撤退していったあとは餓死や戦傷死、病死の日本兵の死体が延々と続き、「白骨街道」と呼ばれました。 牟田口は前線から命からがら撤退してきた部隊の幹部将校たちを集め、こう訓示した。 「皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器が無い、弾丸が無い、食う物が無いなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸が無かったら銃剣があるじゃないか。銃剣が無くなれば腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる」 このバカな訓示は延々と1時間以上も続き、衰弱し切った将校たちは次々と倒れた、と。 また、こうも言いました。 「元来、日本人は草食である。従って南方の山野の草木はすべて食料である」 後方の安全な司令部に芸者を連れてきてうまいものを食っておればなんとでも言えますよ。 牟田口は死ぬまで「インパール作戦は勝てた戦争だった。兵隊がだらしないから負けた」と言っていました。とんでもない侮辱です。 英印軍総司令官のスリム中将(のち元帥)は「日本軍の作戦は一体何を考えているのか理解しかねたが、個々の日本兵の勇敢さ、犠牲的精神には敬意を表する」と言ったそうです。それだけに戦死、餓死した数万の日本兵が哀れですね。 そして牟田口はのちに陸軍予科士官学校の校長。将来の陸軍士官たちにこの無能、無責任の牟田口から一体何を学ばせるつもりだったのでしょうね。 別の過去質問で、あるイギリス士官が戦後「あのまま押していれば英軍は負けていただろう」と言ったという回答がありました、なぜあそこで撤退したのか?と。 「あのまま押しておれば」??弾薬も尽き、食うものすらなくて「あのまま押して」行けなかったから負けたのです。 インパール作戦生き残りの元日本兵が書いた本にこういう一節がありました。読んでいて涙が出てきた。 「久し振りにご飯の配給があった。片手の手の平に乗るくらい。それを20人で分けて食べた」 「退却する時に、重傷で動けない兵隊を殺していった。必ずあとから追いつきますから殺さないで下さい、と泣いて頼む兵隊を、こちらも泣きながら殺した」 個々の兵士たちは敵ですら称賛するほど勇敢に戦っただけに、こんな戦争をさせた牟田口に怒りを覚えます。 太平洋戦争に負けた原因としてふた言目(ひと言目?)には「物量」と言う人がいますが、こう言う気の狂った司令官がいてはそれ以前に戦略、作戦面でも既に負けていました。 (下の写真) 険しいビルマの山岳地帯を進撃する日本兵。一歩踏み外したら崖から転落。苦しかったでしょうね。
質問者からのお礼コメント
ありがとうございました。悲しい話ですね
お礼日時:1/26 15:56