インパール作戦

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

ありがとうございました。悲しい話ですね

お礼日時:1/26 15:56

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攻勢防御、ですね つまり日本側は資源地帯のビルマを守りたい イギリス側は奪還したい つまり日本側はビルマに常に大軍を配備する必要がある インド東部のイギリス軍を叩いておけば、防御が楽というわけです 一般論として 攻撃と防御では防御側の方が有利とされます しかし戦闘開始の選択権は攻撃側にあります つまり防御側にはイニシアティブがないわけです というのが15軍司令部の考えでした が、どーも無駄口はさらなる構想を持っていました つまりインパールから先に進軍して、レド公路、つまりインドと中国の連合国側のルートを遮断したい つまり15軍司令部と無駄口との間で既に溝があったわけです http://www.nids.mod.go.jp/event/proceedings/forum/pdf/2002/forum_j2002_11.pdf この辺は無駄口と15軍参謀部との対立となり、事実無駄口は小畑参謀長を解任しています もともと 南方軍なりビルマ方面軍からしたら無駄口は東京から派遣された人間なわけですよね? つまり中央と現場との乖離が既にあるわけです 現場レベルでは防御主体の限定的な攻勢 無駄口は一気にレド公路遮断 これがのちに悲劇を生むんですが、、、、、、、 要するに作戦目標が違う以上、用意すべき兵站部隊の量も違います 林譲治「太平洋戦争のロジスティック」によると現場(南方軍)は敢えて少なめの兵站部隊により無駄口の強引な攻勢を抑え込めようとしたと示唆しています で、限定的な攻勢しかできない量の兵站部隊で本格的な攻勢を企てるとどーなるか?という話ですね

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昭和十六年十一月十五日に発令された南方攻略命令の大陸命第五六四号によると、ビルマ(現ミャンマー)は一部の占領にとどまるとされていた。ところが翌十七年一月二十二日の大陸命第五九○号では、ビルマの要域占領と大きく踏み出した。面積が日本内地の一・八倍もの地域に対する方針をこんなに短期間のうちに変更した理由はなんだったのか。 戦争目的の一つ、援蒋ルートの遮断がまずその理由として考えられる。まだ残っていたラングーン(現ヤンゴン)からマンダレー、ラシオまで鉄路、そこから道路で昆明(クンミン)に抜けるビルマ・ルートの遮断には、どうしてもビルマの要域を占領する必要がある。さらには日本軍がビルマまで進めば、インドの独立運動が高まり、イギリスの屋台骨を揺さぶるという妄想じみた希望もいだいたのだろう。 しかし、より重要なことは、ビルマの鉱産物に食指が動いたからだ。ビルマは豊かな鉱産物に恵まれ、鉛は年産九万トンと日本内地の一○倍にも達する。そして、ニッケルは年産一○○○トンが期待できた。いわゆる大東亜共栄圏の中でニッケルが産出するのは、ここビルマだけだった。これを取りに行こうとなるのも無理はなかった。 昭和十七年五月末までにビルマの要域を占領すると、さらに進んでインドが目標となった。同年六月二十九日発令の大陸命第六五○号によると、「インド及び中国に対し所要に応じ航空侵攻作戦を実施す」とされ、「ただし奥地に対する地上侵攻作戦は別命による」とあった。ビルマに対する連合軍の反攻は、まず航空作戦から始まるという予測に基づく命令だが、地上作戦にも含みを持たせていた。もちろん日本軍がインドに入れば、独立運動が激化してイギリスが戦線から脱落するのではという希望もあったに違いない。 そして昭和十七年八月二十二日の大陸指第一二三七号で、アッサム州東北部とガンジス川河口部のチッタゴンへの進出を骨子とする二一号作戦の準備が指示された。連合軍の反攻基地への打撃、そしてインド独立運動の支援が作戦の目的となる。しかし、ここでもまた本音は、衣料資源の切迫からインドの綿花の取得にあったはずだ。またインドが生産する銑鉄も欲しい。こうして戦線の西正面では、昭和十九年三月からのインパール作戦へと流れて行く。 ビルマ作戦の総投入兵力は三二万八四九八人、戦没者一八万五一四九人、戦傷病者約四万五○○○人を含む生還者は一一万八三五二人だった。総括すると師団固有部隊の戦死及び戦傷病死率は六○%から七○%の間であろう。ガダルカナル戦の損耗率が六○%だったことを考えると、一作戦でガダルカナル戦以上の損害をだしたことは驚きである。昭和十九年六月末になると、第三三師団歩兵第二一四連隊→二二四人。同歩兵第二一五連隊→一四六人まで兵数が激減していた。一個連隊の兵力が一個中隊になった。イギリス・インド兵の戦没者は約一万五○○○人、戦傷病者は約二万五○○○人、合計約四万人とされている。

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インパール作戦の主目的は『ビルマ防衛』=英軍のビルマへの反攻拠点を叩いて自分達が確保する、です。 副次的にチャンドラ・ボースにインド解放の拠点を持たせよう(英国のインド支配を同様させよう)と言う目的もありました。 最初にインド東部への進攻を計画した1942年夏の時点の目的は、援蒋ルート遮断が主目的でした。 国立公文書館アジア歴史資料センター(略称アジ歴)で、1942年8月22日付の杉山参謀総長発寺内寿一南方軍総司令官宛の指示が読めます。 そこには、作戦目的は、 「アツサム」州東北部ノ要域及「チタゴン」附近ヲ攻略確保シテ航空作戦ヲ容易ナラシムルト共ニ援蒋航空路ノ遮断ニ勉ムルニ在リ と書いてあります。(レファレンスコードC12120137850) が、この時点では牟田口廉也(第18師団長)も含め、現地部隊が兵站の不安から反対し、この『二十一号作戦』は『保留』(お蔵入り)となりました。 これが復活したウ号作戦(いわゆるインパール作戦)についての、1944年1月30日付の南方軍総参謀総長の指示もアジ歴で見られます。 ~~ 一、緬旬方面軍司令官ハ防衛態勢強化確立ノ為適時当面ノ敵ヲ撃破シテ「インパール」附近東北部印度ノ要域ヲ占領確保シ且海軍ト協同速カニ緬甸南西海岸方面ニ於ケル反撃作戦準備ヲ強化シ来攻ノ敵ヲ撃滅スベシ ~~ (レファレンスコードC12122305500) 全般的な戦局の悪化で英軍のビルマへの進攻を予想し、その拠点となるインド東部のインパールを占領して、防衛ラインを東向きに広げよう、としたものです。 なお、アジ歴の資料は↓にレファレンスコードを入力すれば誰でも読めます。 https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/reference 辞書・事典類がまとめて引けるサイト『コトバンク』で見られる、世界大百科事典 第2版の『インパール作戦』の解説は… ~~ 第2次大戦中の日本軍によるインド北東部の都市インパールImphalへの進攻作戦。1942年ビルマ(現ミャンマー)を席巻した日本軍はこの作戦を計画したが,成功を危ぶむ者も多く中止。しかし第15軍牟田口廉也司令官は再びこれをとりあげて44年1月より実行し,自由インド仮政府首班スバース・チャンドラ・ボース下のインド国民軍も参加,同市を包囲した。だが長い補給路,制空権のないことなどから惨敗。3師団長の更迭を生む混乱の中で撤退した。 ~~ と二段階の話になっていて、日本大百科全書(ニッポニカ)の解説は… ~~ 太平洋戦争の末期、日本軍により実施された東インドのインパールに対する進攻作戦(ウ号作戦と呼称)。同方面を根拠地とするイギリス・インド軍のビルマ(現ミャンマー)進攻作戦を未然に防止し、あわせてチャンドラ・ボースの自由インド仮政府支援のため、インド領内における足場を確保することを目的として計画され、1944年(昭和19)1月、大本営の認可するところとなった。同作戦を担当した第一五軍(司令官牟田口廉也(むたぐちれんや)中将)は、同年3月に行動を開始し、4月にはインパール付近の地点にまで進出したが、航空兵力の支援を受けたイギリス・インド軍の強力な反撃と補給の途絶とによって、しだいに守勢に回り、7月には退却命令が下され、飢えと病気により多数の将兵を失った悲惨な退却戦が開始される(死傷者数7万2000人)。 (以下略) ~~ と、後の方の目的、つまり、『イギリス・インド軍のビルマ(現ミャンマー)進攻作戦を未然に防止』を挙げているのが正しいです。 ウィキペディアの『インパール作戦』の項目の冒頭が… ~~ インパール作戦(インパールさくせん、日本側作戦名:ウ号作戦〈ウごうさくせん〉)とは、第二次世界大戦(大東亜戦争)のビルマ戦線において、1944年(昭和19年)3月に帝国陸軍により開始、7月初旬まで継続された、援蔣ルートの遮断を戦略目的として、イギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指した作戦のことである。 ~~ と『援蔣ルートの遮断』が目的であるかの様に書いているのは間違い・或いはウソです。 作戦のゴールが何だったか、と言うと、単純化して言えば、英軍の反攻拠点のインパールを日本側が確保する事、って事になりますね。

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援蒋ルートの遮断です。 そもそも日本とアメリカが戦争することになったのは、アメリカが中国をけしかけて日本と戦争させ、日本がいくらがんばっても、アメリカが中国を援助するので日中戦争が終わらないので、アメリカを叩くしかないということになったわけです。 中国を屈服させることは根本的な目的。アメリカが中国を支援しなければそれは可能。そのアメリカから中国への援助物資はインドからヒマラヤの山間部を通って送られている。 インパール作戦はその輸送路を切断しようとしたのです。 これ、開戦初期の、日本海軍がインド洋の制海権を持っているときに、海からやるべきでしたけど・・・・それだって国力的に難しいかったでしょうが、インパールを陸から攻めるようなことをするよりは・・・と思いますが。

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