回答受付が終了しました

織田信長が、毛利征伐のときに豊臣秀吉を派遣しましたが、その時の2人はどのような関係だったのでしょうか?

補足

沢山のご回答ありがとうございました!

日本史24閲覧

回答(4件)

0

そのとき織田信長はすでに織田家の当主から退いて、織田家の当主は家督を相続した織田信忠でした。信長は隠居するでなく、官職につくでなく、幕府をひらくでなく、どのポストにも就かずに宙ぶらりんの状態でした。しかし「上様」の呼称をつかわせており、天下人として信長は依然として君臨していました。ところが一方で、織田軍の総帥という役割は信忠が務めるようになっており、長篠の戦い以後、信長は軍の指揮をすることはなく、検分や都督するに留まっていました。 一方、羽柴秀吉は、織田家の5人の重臣の1人であり、中国遠征軍の山陽方面の大将に任命されていましたが、柴田勝家の陣から勝手に帰陣するなど、直前にいくつか失態があって、叱責を受けた身で、名誉挽回のために手柄を欲していました。高松城の水攻めの最後に信長の出陣を懇願したのも、自らの功績を見せるためでした。秀吉は信長の子の秀勝を養子として跡取りとしており、また秀吉の正室であったねねは、秀吉以上に信長に気に入られており、秀吉本人は信長公記にもたびたび信長に叱責される場面があるものの、関係性は少なとも表面上は良好だったと思われます。 ところが、本能寺の変で信長・信忠が討たれると、秀吉の織田家に対する態度は豹変し、自らが天下人を目指す過程で、かつての大恩人の親族を排除するような態度をとりはじめます。秀吉というと「人たらし」とよくいわれますが、ほとんど太閤記の創作であり、冷酷な暴君としての本性をみせてくることから、信長との関係性も秀吉の内心は、人が思ってるのとは違った可能性がないこともないです。 信長の史実での実像の誤りが最近訂正されつつありますが、秀吉についても同様で、秀吉は信長とは比べ物にならないような戦国最強の暴君でした。信長はむしろ理屈っぽい道理のわかる人物でしたが、秀吉は不条理で感情的な面がありました。

画像
0

羽柴秀吉は織田信長の息子の秀勝を 養子に、したとされます。これに よって秀吉は織田家の親戚縁者と なったわけで織田信長が毛利との 合戦を羽柴秀吉に抜擢した、という のは単に実力査定の人事だけでなく 秀吉が信長の息子の養父となった というのも大きく影響したと 思われます。

0

織田信長が君主で、当時は羽柴秀吉だが中国方面軍の大将です。