明治時代の国民国家形成について
明治時代の国民国家形成について 江戸時代、日本は複数の藩がありその上に幕府があるかたちで政治を行っていました。しかし幕末に薩摩や長州が天皇を押し上げて、日本という一つの政治体をつくりあげるわけですが、なぜ日本では国民をここまでまとめあげることができたのでしょうか? イギリスではいまでもスコットランド、ウェールズ...などで少し意識が違うようですし、ドイツでもバイエルンは少し違うようです。 日本では国意識が強く、自分の出身地への意識が弱い人が多いです。各都道府県を小馬鹿にしたような番組もよく見られます。これは、地域(藩)意識が薄れ、日本という国への統合が成功したといえると思いますが、なぜこんなにうまくいったんでしょうか?葉隠れでは、武士は主君のために死ねる存在でなきゃいけないと言われ、文知政治までは藩主の死に際して、殉死まで行われていたのに、とても不思議です。 国としてまとまれたのは現在の平和にも繋がっていると思いますが、もうすこし地元愛が深ければ地方分権も進み、伝統産業や美しい町を守ることもできただろうと考えると悲しくもなります。 質問は、主君への忠誠心が高い武士が多くいた(藩意識が強かった)のに、なぜここまで一つの国にまとめるのがうまくいったのでしょうか?また、天皇という存在は江戸時代の地方武士、平民にとってどういう存在でしたか?明治当初は崇拝者は少なかったんですか?
ベストアンサー
官軍と幕府軍の戦いの中で残忍な殺戮を行って見せたことで、反乱軍より勝ち組に乗らないと損だと考えた藩が多かった(ネットでは否定する意見があるが、賊軍の遺骸は埋葬もゆるさず放置させたのは事実)。そして「もともと天皇に従うのが正統」という美辞麗句でおのれも臣下も納得させた。 同様に神仏分離の最初に日吉大社で最悪の廃仏毀釈の例(200人以上の神人が突如出現、話し合いを拒否して大社の鍵を奪い、中の仏像・仏具を破壊し火にくべた)を行って見せたことで、仏教勢力も政府に逆らうととんでもないことになると、こちらも勝ち組に回った(実際、長州の国学者が地方の神仏分離を指示する時に「比叡山のような目に会うぞ」と脅し文句に使った)。 実際、裏日本では真宗、一向信徒の反乱が複数起きたが、政府軍が出るまでもなく東西本願寺が自ら説得に向かい、信徒を鎮めている。あまつさえ、その後の国家神道の広宣にあたっては、寺を提供し、僧侶自ら宣教使(試験で採用された公的資格者)となって天皇の歴史と尊さを市民に説き、天皇の神格化に大きく貢献した。 領主への奉公と天皇への忠心、仏と神の共存。それらを矛盾と感じず、併存できてしまうのが昔からの日本人の不可思議なメンタルなのでしょう。良く言えば柔軟、悪く言えばずる賢く長いものには巻かれる。
質問者からのお礼コメント
ありがとうございました。
お礼日時:1/30 15:45