それは近衛文麿が首相辞職後から日米開戦までのプロセスを見ればわかります。次期首相選任の重臣会議で近衛が開戦反対派の東久邇宮を首相に推薦し、内大臣木戸幸一は終始一貫して対米開戦主張していた東条英機を推薦し、木戸の意見が通り天皇に奏上し、天皇が裁可した。そして天皇は東条首相就任後に対米開戦の作戦について何度も東条に奏上させ、疑問点は何回も下問している。また軍幹部を何回も呼び質問している。陸軍参謀総長の杉山元の杉山メモによると「南方作戦は予定通りできるか」とか「上陸作戦はそんなに簡単にできるか」「日米開戦したらどのくらいの期間で片付くか?」と聞くと杉山は「南方では3か月くらいで片付きます」と答えると「お前はシナ事変では1か月で片付くと言ったが4年もたってまだ片付いていないではないか」と杉山を叱責し、声を荒げて「アメリカには絶対勝てるのか」と聞くと、杉山は「絶対とはいえませんが勝算はあります」と答えた。これだけでも天皇が対米開戦に反対していていなかったのは誰にでもわかる。そして日米開戦となったのである。
開戦後もニューギニアやラバウルにもっと兵を送れと命令し、沖縄戦に兵力足らなければ逆上陸せよと軍に指示し軍はその通りに実行している。これだけ見ても天皇が軍の総帥としてその権限を如何なく発揮しているのがわかる。1945年に入り、もはや敗戦しかなく近衛文麿が戦争終結を早急に求める上奏に対しても昭和天皇は「もう一度敵をたたき、日本に有利な条件を作ってから」と拒否し、また広島長崎に原爆投下後の1945年8月12日の皇族会議でも国体護持できなければ戦争継続と朝香宮に言っていた。これが戦争反対していた平和主義者かどうか誰の目にもわかるというものだ。