賤ケ岳の戦いの後に、織田信孝は織田ノブオの軍勢に攻められたのでしょうか。 岐阜城にいた信孝は、ノブオの軍勢に攻められたのですか。

補足

岐阜城の織田信孝は勢力を失っていたのでしょうか。

日本史29閲覧

ベストアンサー

0

ThanksImg質問者からのお礼コメント

ありがとうございます。

お礼日時:2/7 22:53

その他の回答(1件)

0

1582年6月本能寺の変が起こり、羽柴秀吉が天王山で明智光秀を破ったのち、6月27日には清洲会議が開かれて、信長亡き後の処遇がきまった。 しかしこの取り決めは最初からうまくいかず、まもなく柴田陣営と羽柴陣営は激しく対立するようになった。 10月6日、柴田勝家は秀吉が清洲会議の決定に違反していると通告し、諸大名に弾劾状を送った。 一方秀吉は10月10日~16日にかけて京都で大々的に信長の葬儀をおこない、これに欠席したとして柴田陣営を批判した。 清洲会議では三法師は安土城へ移ることになっていたが、12月になっても織田信孝が岐阜城に留めて離さなかっため、羽柴陣営はこれを理由に挙兵した。 まもなく秀吉は長浜城の柴田勝豊を降し、信孝の岐阜城を囲んだ。 雪で勝家は動けず、信孝も美濃を掌握しきれずに秀吉に対抗できず、一旦信孝は降伏し三法師を引き渡し、人質を出した。 この際に、美濃で親秀吉もしくは中立的行動を取っていた森長可、稲葉一鉄は完全に秀吉につき、さらには氏家行広や信孝の家老の岡本良勝、斎藤利堯までが秀吉に寝返ってしまった。 1583年1月北伊勢で滝川一益が挙兵。 羽柴陣営がこれをなかなか平定できずにいると、4月に柴田勝家が挙兵した。 秀吉は蒲生氏郷・織田信雄に伊勢を任せて、自身は北近江に出陣し柴田軍と対峙した。 これをみた信孝も再び挙兵した。 北近江戦線がこう着状態となったため、まず脆弱な信孝を平定しようと、秀吉は主力を率いて美濃に向った。 今度はこれを見た北近江戦線の柴田軍の佐久間盛政 が秀吉の留守を狙った攻撃を行い、一定の戦果を得た。 ところがこの時、秀吉軍は大雨のために揖斐川を渡れず大垣にいた。 柴田軍が動いたことを聞いた秀吉は、大軍を大返しさせ、徹夜の攻撃後に戦列の整わない佐久間隊を急襲。 これをきっかけに柴田軍は崩壊して敗走した。(賤ヶ岳の戦い) 結局、勝家は北ノ庄で24日に自害に追い込まれた。 秀吉軍はとって返して岐阜城を囲み、弱体化していた信孝は戦いにもならずに降伏した。 尚、滝川一益は7月まで抵抗した後に降伏したため、織田信雄軍は信孝との戦いには参加していない。 信孝は長良川を下って尾張国知多郡にいき、内海大御堂寺安養院に入ったあと、すぐに織田信雄の命令で切腹させられた。 秀吉や信雄の元に出されていた信孝の母などの人質もことごとく処刑された。 一方正室は信孝降伏後に離脱した神戸家家臣団に奉じられて(彼らに奪われたとも)神戸に帰って再婚したとされる。