賤ケ岳の戦いの後に、織田信孝は織田ノブオの軍勢に攻められたのでしょうか。 岐阜城にいた信孝は、ノブオの軍勢に攻められたのですか。
賤ケ岳の戦いの後に、織田信孝は織田ノブオの軍勢に攻められたのでしょうか。 岐阜城にいた信孝は、ノブオの軍勢に攻められたのですか。 後ろ盾だった柴田勝家を失った信孝には、ノブオにも負けるほど弱っていたのでしょうか。 秀吉がノブオに攻めさせて信孝を殺させたとされているのですか。
岐阜城の織田信孝は勢力を失っていたのでしょうか。
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ベストアンサー
清洲城で織田の重臣らが 織田家中の今後の志向を 決定することが話し合われた のが俗にいう「清洲会議」で 織田信忠の息子、織田秀信を 織田当主とするとして 織田信孝の領国は美濃、居城が 岐阜城と決められました。 清洲会議の約では織田信雄は 伊勢が領国になったと聴き ます。信孝が秀信を岐阜城に 軟禁し、ないがしろ、にした として羽柴秀吉の手勢が岐阜城 を包囲し織田信孝は降参して 秀信を解放し秀吉のほうに 渡しています。この紛争で 美濃の稲葉氏などの有力武家が 織田信孝に服さなくなって いったといいます。美濃に おける支持力の低下から 秀吉と勝家が決戦に及んだ時、 織田信孝は戦力不足となって 勝家が自害後は織田信雄の 手勢に岐阜城を攻められ 降参し自害となった。 一説には信雄に助命するの で投降してくれと約束 させられ欺かれ自害を強要と いう説も。
質問者からのお礼コメント
ありがとうございます。
お礼日時:2/7 22:53