信長の正室・帰蝶の記録は殆んど残ってないとされてますが、さすがに不自然だと思われませんか?

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「帰蝶」という名も本当かどうか・・・。 ドラマなどは便宜上「帰蝶」としているだけで歴史マニア的には「濃姫」の方が一般的です。 「濃姫」の方が美濃の姫という意味で斎藤道三の娘とすぐに判りますから。 名で記載されているものが少なく、殆どの書物はこれが信長正室だろうと推測の域は出ていません。ですので死亡した年も判然としていないのです。 ですが、この時代の女性はこんなもので特に実家が戦火に遭えば実家に送っていた書簡も焼けてしまった事になりますので余計名前を突き止める事は難しくなりますし、戦国時代の姫は実家から他国に送られたスパイでもあったので送られた手紙も残る事なく燃やされる運命だったと思います。

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帰蝶にとって再再婚の相手。信長にとっても帰蝶の前夫・前前夫が不審死ということは百も承知での政略婚でした。初めからその程度の割り切った関係だったのでしょう。道三の婿として美濃衆の囲い込みに役立ったかもしれません。 たくさんの落城・滅亡話が伝わりますが、婦女子の話が残されているのは、ごくわずかです。名だたる武将の妻や娘たちも消息不明者が多いものです。 確かに信長の正妻ですから、形として残っていたかもしれませんが結構な確率で火災や廃仏毀釈などで資料や菩提寺そのものが途絶えている場合もあります。京都大徳寺総見院も残っていますが、廃仏毀釈の嵐に会っています。 女性の名前自体尊重されませんので、様々な呼び名がありました。別人だと思われていたのが実は帰蝶だったということがあるかもしれません。 おそらくこれからも新説が出てくるでしょう。

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もともと、隣国の斎藤家との同盟を結ぶために信長の正室にもらったのだから、斎藤家と敵対した時点でいい方は悪いけど用済みだし、人質として殺害したか、送り返していても別におかしくはないと思う。

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子供ができず、早く亡くなったか、離縁したか、で記録に残すようなことが無かった、のでしょう。子供がいたらもっと違っていたのでしょうが…。 秦の始皇帝なんて、彼の親や数代前の王の奥さんの事もわかっているのに、始皇帝は正妻や側室の情報はほぼゼロです。

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だって不遇じゃん、最初の旦那は父に毒殺されてその命令で信長に嫁いでその父が兄に殺されて生家の城は落とされ名前も変わって、女心を分かってやれよ。