関東大震災と226事件時に、もし空母を動かせたらどの様な運用をしたと考えますか?

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

トモダチ作戦を振り返るに、兵器本来の目的外で活躍出来る進歩を嬉しく思うと同時に、複雑な気持ちも正直あり。 「いずも」の甲板は大きかった…スカイママとは言い当て妙ですが、懐広き艦であり続けられます様に。 皆様、回答していただきありがとうございます。

お礼日時:3/4 23:53

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一九二三年『九月一日土曜日風浪稍々強ク午前十一時五十八分総員午食中ナリ。突然何者カ爆発セルカ如キ爆音ト激動トヲ感ジ上甲板ニ出スルヤ陸岸懸崖概ネ土煙リ挙ゲテ震倒崩壊シ初メテ爆発ニアラズシテ大地震ナルヲ知レリ。 正午ヲ過クルモ強震続々タリ。既ニ工廠方面ニハ大焔ノ挙ゲルヲ認ム』(アジ歴『軍艦(7)「軍艦鳳翔大正十二年九月一日震災関係詳報」』ヨリ)。 関東大震災当日、「鳳翔」は横須賀軍港に停泊中でした。その時の模様が上記の報告です。 当日の横須賀には、「鳳翔」の他「榛名」等が停泊していましたが、繋留索を外した「富士」「阿蘇」等は南風に煽られて浮標し、また、地震直後に発生した重油流出に伴う大火災を避けるため、多くの艦艇が横須賀港へ防火隊を派遣しつつ、港外への脱出を図る模様が報告されています。 一方で、横須賀方面には地震前日から低気圧が近づきつつあり、強風のため、飛行機(『十年式艦上偵察機一基及十年式艦上戦闘機六基』と記載有り)は陸上の横須賀航空隊の格納庫に移されました。これにより、飛行機は10日間使えなくなりました。 と言うのも 『九月四日~略~飛行場ハ一面・東西ニ亘ル亀裂ヲ生シ飛行ニ適セス且ツ飛行場一尺没下シ埋築作業ニ使用セシ枕等所々ニ突起スルノミナラス地層ノ震動ニ拠ル不平均ナル処ハ飛行場面ニ凹凸ヲ作リ滑走危険ナリ』 と飛行場の修理と崩れた格納庫内の飛行機の点検・修理に数日要することとなったからです。 震災後の初飛行は、九月十一日。 ・操縦者:亀井中尉、同乗者:大西大尉、偵察機:横須賀航空隊所澤分遣所調査 ・操縦者:吉良大尉、戦闘機:房総半島視察 ・操縦者:馬場中尉、戦闘機:三浦半島視察 (操縦者の亀井中尉、吉良大尉、馬場中尉は「着艦三羽烏」の異名で呼ばれた3名です。なお、偵察機の同乗者の大西大尉とは大西瀧治郎中将です。) 「鳳翔」は10月9日まで横須賀に、その後、四日市に回航し飛行機を積んで20日に横須賀へ戻っています。 多分ですが、当時の航空母艦では、救援物資の運搬や避難民の輸送も難しかった可能性が高いです。 なお、搭載機が即応できなかったことについて『本震災ニ當リ本艦飛行機ノ活動シ得サリシ原因ヲ索ムルニ使用移動格納庫覆帆布ノ風蝕セラレアル為低気圧風雨ノ損害ヲ少ナリシタル為メ飛行機ヲ一時横須賀飛行隊第七格納庫ニ格納セシムニ起因ス』としています。 ーーーーーーーーーーーーー 上記のアジ歴『軍艦』には、横須賀軍港内にいた艦艇の救援活動が詳細に記載されていて、特に「山城」は「日向」に交代するまでの約1カ月間、救援隊の旗艦として活動しています。また、「天龍」は横須賀ー清水を3往復以上し、避難民の輸送・救援物資の輸送を行っています。 ーーーーーーーーーーーーー 関東大震災に関する文献に『ふるさと横須賀』(石井昭著)と言うのがあって、そこには、水上機母艦「若宮」(当時は航空母艦に類別されていました)に関する記述があります。 それによると『その日、連合艦隊の大半は今の中国東北地方の旅順港外に停泊していた。「連合艦隊ノ組織ヲ解ク東京湾二回航スベシ」 との命を受け、全艦競つて出航。~略~「土曜で艦内作業は休みでした。甲板で衣服の繕い中に電報屋さん、つまり無線電信士が『変な電報だよ。地震で東京が 大火災、あの迫浜(※)の航空隊が陥没したぞ』と。やがて海軍省の公電。旗艦の緊急会議から『至急、点火!』と叫びながら艦長が戻って来たんです。 百数十隻もいた軍艦が全艦、至急点火。当時は重油か石炭でしょ、空は吐き出す煙で真っ暗。蒸気が上がり動ける艦から本土へ向かった訳です。 一番早いのは駆逐艦、次は軽巡…、二時間後には出航したが、私らは点火したって五、六時間たたないと蒸気が上がらない。 夕方やっと出航ときた。翌日の昼ごろ、大隈半島のはなを回つた時『佐世保へ回航スベシ』。医療品を積んで行け、 というんです。その後、四国の近くで今度は『呉へ回航、食糧ヲ積メ』。どこすこ、どこすこ十数時間かかって戻り、たくわんニ百樽(たる)などを積みました。 ~略~ 六日の夕方、横須賀へ。干しうどんをかついで逸見の桟橋から港町、汐入大通り、長源寺坂へと歩いたが、道路っ端の二階屋が倒れていたので難儀しました。 ~略~翌日、帰艦したら『芝浦へ回航スベシ』。 今度は避難民の移送でした。芝浦への回航中は、大釜(がま)で麦めしを炊きどおしでした・・・」』(※部分に記載の「迫浜」は「追浜」のことと思われます。そこに「鳳翔」の艦載機が避難した横須賀飛行隊がありました) 水上機の運用よりも救援物資及び避難民の運送がメインだったことが伺えます。 上記『軍艦』には「若宮」のことも記載があり、酒保を開放して菓子の現金販売を許可したり、甲板上に簡易設備(仮設のテント等)を置き、避難民の居住用としたことが書かれています。 ーーーーーーーーーーーー 戦前の災害時等における飛行機の運用は、若干の記載しか見当たらず、例えば、霞ヶ浦航空隊が昭和4年に起きた「石岡大火」の消火活動に参加したとか、関東大震災時には、同じく霞ヶ浦航空隊が陸上偵察機2機、水上偵察機1機を飛ばし、東京、横浜、横須賀方面の状況を警察官憲に通報したなどの記録が残る程度です。 ーーーーーーーーーーーー さて、226事件の方ですが、当時、竣工していた空母のうち、「赤城」は全通式甲板へ佐世保で改装中、「龍驤」は第四艦隊事件での損傷修復のため呉にいました。当日、行動可能だったのは、「鳳翔」「加賀」の2隻です。 海軍公報によると、 2月26日午前10時:「鳳翔」・横須賀、「加賀」・有明湾 2月27日午前10時:「鳳翔」・横須賀、「加賀」・有明湾 2月28日午前10時:「鳳翔」・横須賀、「加賀」・大阪 2月29日午前10時:「鳳翔」・横須賀、「加賀」・大阪 となっています。 (ちなみに、東京湾に出動した第一艦隊の「長門」は、26日は別府ー宿毛へ航海中、27日は宿毛、28日は芝浦にいます) 「鳳翔」の方には特段の動きはありませんが、「加賀」は、その『航泊日誌(昭和11年2月1日~昭和11年4月30日)』によると、2月27日午後11時ごろより、第二艦隊旗艦「愛宕」とともに大阪・天保山沖(正確には大阪港・北突堤)に停泊し、大阪港出入りの艦船の監視、大阪港の警備任務に就いたようで、3月1日午後2時に出港(有明湾へ回航)するまで同地に停泊しています。 「加賀」の行動を見るに、空母としての役割よりも演習参加艦の1隻として第二艦隊に付き従い、大阪港湾の警備と叛乱の抑止(恐らく、陸軍第4師団の抑え)に動いたという印象です。 ーーーーーーーーーーーー 226事件と言えば、有名な「下士官兵に告ぐ」というビラを飛行機から撒いたとされていますが、当該飛行機は、羽田を発した近衛師団所属の3機であり、Wikipediaによれば、空中から威嚇飛行を実施したとも書かれています。この威嚇の内容は定かではありませんが、当日の天候(「加賀」が停泊した大阪でも雪が降ったようです)を考えると例え海軍が飛行機を運用したとしても、偵察が精一杯だったのではないだろうかと思います。

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関東大震災 普通に輸送艦として現地へ救援物資資材を輸送したあとは避難病院船として活用し、艦載機は陸上基地で訓練でもしておけばいいんじゃない? 226事件 特にするべきことはない。決起翌日の昼には鎮圧命令が下され3日後には収束しているが、当時の大型艦は機関の始動出航までに半日くらいかかるし、航空機でできることは海軍なり陸軍の基地航空隊ができる。当時の空母には航空機輸送艦以上の存在感はないので動かしたところでその他の艦艇(巡洋艦以下)の評価でしかない

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アメリカでの例を思い出しました。 レディ・レックスこと空母レキシントンは、1939年冬に大停電に陥ったワシントン州に対して出動し、タコマ市に1ヶ月に亘り電力を供給しました。

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そもそも、現在の軍艦のように、災害派遣も想定した設計になっていない訳で。 戦争中に発生した東南海地震の場合は、どうしようもない。

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空母を動かしても何の役にも立たない。 226事件の時なら、横須賀から軍艦に海軍陸戦隊を載せて、晴海から上陸し、反乱軍を鎮圧、それと連動するように東京湾に停泊している軍艦から艦砲射撃ですよ。