井伊直政って何で徳川家臣から嫌われなかったんですか? 若造なのに、いきなり徳川四天王に数えられたり12万石の家中最大の石高だったり。

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明智光秀や羽柴秀吉も織田家の出世頭ですが、その地位を固めています。 領地が固定した中での出世争いではなく、領地が拡大していく中でのことなので公平な論功行賞だったということでしょうね。

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嫌われものです。 徳川譜代家臣にも2通りありまして 三河一国時代から三河衆 それから新参の、遠江の遠江衆 井伊直政は、新参の、遠江衆。 どこの国にも後輩に、先を越されると、やっかみは、ありますね。 しかし、石田三成と違い、 戦の武功もあり、やはり四天王に、ふさわしい武将です。

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嫌われてましたよ。本多重次があからさまに嫌ってましたし、後に親友となる榊原康政も初めは嫌っていました。 もちろん、家康の贔屓が過ぎると言うのもありましたが、三河武士にはない能力が備わっていたのが直政です。家康だけでなく、秀吉も直政を気に入っていたので、家中最大の禄を賜り、秀吉、家康があげたために他は文句が言えませんでした。

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徳川四天王は後世の人間が考えたこと。徳川16神将も徳川三傑(井伊、本多忠勝、榊原康政)もそうです。家康の期待通りに武将としても他家との交渉手腕も優れていたからでしょう。

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wikiでも周辺の譜代の武将たちからの見る目は厳しかったとありますね。 『直政がまだ家康の小姓だった頃、大久保忠世の陣中に招かれて他の武将とともに芋汁を振舞われた。戦場の事であり味噌は糠味噌、具は芋の葉や茎が混ざったものであった。他の武将は芋汁を食べているのに、直政の食は進まず、忠世がどうしたのかを尋ねると、直政は「醤油はありませんか」と応じた。このことを聞いた他の武将達は「ここは戦場だと言うのにそのような物があるわけがないだろう」と口々に直政を非難した。忠世は直政に「同僚の者たちは皆、同じものを食べている。兵士達はこのような物でも満足には食べられない。ましてや農民達の中にはもっと苦しい生活をしている者達もいる。一軍の将になりたいのであれば、このことを絶対に忘れてはならぬぞ。そのためにここへ呼んだのだ」と諭した。新参でありながらも若くして選抜され、部下にも厳しかった直政に対する周囲の目は厳しかった。これ以後、直政はよりいっそう自分にも部下にも厳しくなっていく(『名將言行録』卷之五十・大久保忠世の項)。 直政は武勇だけではなく、外交もできたことから家康に重用されたわけですが(外交ができる武将は少なく、武田信玄における真田幸隆、信長における秀吉、光秀、伊達政宗における大内定綱なども異例の抜擢をされている)、さらに直政は戦場ではいつも危険な場所を引き受け、傷が絶えなかったそうです。 家康は「本多忠勝は戦場できずを負ったことがないのに、直政はいつも負傷している」と言っているし、実際、関ヶ原の合戦の負傷がもとで42歳の若さで死んだし。 そういう危険な仕事、戦いを多く引き受けることで、他の武将たちからも一目置かれるようになったのでしょう。 秀吉も「金ヶ崎の退き口」で殿(しんがり)を引き受けたことで、他の武将から一目置かれるようになった、という話もあるし。 その点が戦場経験がほとんどなかった石田三成や本多正信・正純との違いかと。