加藤清正、黒田長政、蜂須賀家正らは、朝鮮出兵から帰還後、「三成襲撃事件」を起こします。
加藤清正、黒田長政、蜂須賀家正らは、朝鮮出兵から帰還後、「三成襲撃事件」を起こします。 この事件で私が彷彿とするのは、ベトナム戦争で地獄を見た帰還兵が、国を相手に暴走する映画「ランボー」です。 清正らは、石田三成ら奉行衆を相手に、朝鮮出兵が失敗に終わったことの引責として失脚を求める訴訟を起こしました。 軍監を務めた奉行衆は、ありのままの事実を主君の豊臣秀吉に伝えていただけだったのでしょうが、清正や長政らにとっては、「それは事実を伝えきれていない」、と思ったのではないでしょうか? 人の死に関しても、書類で「何名死亡」と見るのと、実際に仲間が死んでいくのを目の当たりにしているのとでは、違うと思います。清正らにとっては、ランボーのように「俺たちがどれほどの地獄に居たか、お前らは本当にわかっているのか」、と言いたかったのではないでしょうか? それを秀吉に汲み取ってほしかったが、秀吉はすでに亡く、代わりに徳川家康がそれを汲み取る形となりました。清正たちは、家康に感謝したことでしょう。 天下統一を果たした後の朝鮮出兵と、第二次世界大戦が終結した後のベトナム戦争と、どちらも兵たちは「きっと今度の戦いも、良い結果で終わるさ」、と考えていたでしょう。それが泥沼化し、地獄のような有様になったのは、似ていると思います。 ドラマなどでは三成襲撃を、「脳筋共が後先を考えず、感情に任せて暴走した」、と描かれることが多いのが残念に思えます。 今回は質問というより、おしゃべりです。ご意見をお願いします。
「ランボー」を単に暴れただけ、事件を起こしただけ、としか捉えず、その背景にある戦友を亡くした無念さに考えが及ばないのであれば、今回の質問の内容には全然触れられていない、と思います。 人物の気持ちを思考する質問なので、歴史ではなく、文学的な面が強い質問かもしれません。 引き続きご意見をお願いします。
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ベストアンサー
また「ファン同士質問して回答して」と言われそうですが(ファンではないですが)、danさんには質問に回答しないようブロックされているので、こちらでお答えします。知恵袋ではかなり「石田三成襲撃事件」に誤解や切り取りがあるように感じます。加藤清正等は熱い気持ちから立ち上がった?ランボーではなくもっと政治的に動いていると考えた方が良いと思います。 小西行長は帰国後に撤兵時の和議不成立の原因を清正等に求めて五大老に訴え、清正等は反訴して、また軍監(三成ら奉行ではない)らの報告への不満を訴えたとされます。「清正記」などに収録された清正側の訴状を見ると、批判の対象は三成ではなく小西です。帰国した軍監たちも奥州にいた三成に対し、三成を通さずに秀吉へ朝鮮の状況を報告したことを書状で知らせています。報告の場にはほかの奉行衆が同席していたことも記されています。こうしたことを言うと「三成を擁護して小西やほかの奉行のせいにしている」と言い出す人もいるのですが、むしろ史料にないことまで三成がやったと過大評価しているように思います。この訴訟において奉行衆は清正等の納得のいくような裁定を出さなかったとみられ、こうした不満から、奉行と不和の家康と結び付き、「三成襲撃事件」に至ったと考えられます。 三成襲撃事件はただの「訴訟」だというのは白峰旬氏が述べていますが、研究者の間で支持が広がっているとは思えず、「史学的に襲撃事件はなかった」とするのは早計です。白峰氏より前から清正等の狙いを「殺害」ではなく「処罰」だと指摘していた水野伍貴氏(私は水野氏の見解に近いです)は白峰論文後も、家康の縁辺問題で前田利家や奉行衆が公戦として家康を討とうとした事件からの一連の政争であり、清正等の「訴訟」も軍事力を伴ったものであることを詳述しています。室町時代の御所巻を考えればイメージしやすいでしょう。 なお、白峰氏は「豊臣七将襲撃事件(慶長4年閏3月)は「武装襲撃事件」ではなく単なる「訴訟騒動」である : フィクションとしての豊臣七将襲撃事件」(史学論叢48)で、『豊臣七将襲撃事件というネーミングは「襲撃」、「事件」という言葉から大変ショッキングなイメージを与えていると同時に、石田三成はそれほど当時は他の部将から憎悪の対象だったのか、という悪いイメージを植え付けている点も加わり…」と述べています。敗北者ゆえに悪いイメージを取っ払った三成の実像に迫ろうという研究の一環で「訴訟」だと言っているのであり、「単なる訴訟で三成の不正が明らかにされた」ように語る知恵袋の一部利用者の見解とは正反対なわけです。また、白峰氏はdanさんやlooさんが主張する、『清正等が「三成の朝鮮の不正を訴えた」訴訟』とは言っておらず、五大老五奉行の間に生じた評議問題(利家の後任問題と推測)の責任を三成が取らされたとしています。五大老五奉行の高レベルの政治問題として捉えており(『新視点関ヶ原合戦』)、朝鮮での軋轢の影響を比較的軽視しているのが白峰氏の説の特徴です。私は支持しませんが。 白峰氏は、光成準治氏が『関ケ原前夜』で紹介して同事件との関連で注目された一連の毛利輝元書状も、無関係としています(慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(「厚狭毛利家文書」)の解釈について)。これらは事件が軍事力を伴うものであったことを証明するものなので白峰氏は関連を否定しなければならないのですが、これも研究者の間であまり支持を得ていません。私も支持しかねます。 朝鮮半島で地獄を味わったというのはそうかもしれません。奉行への怒りもあったと思いますが、不利な裁定を軍事力を伴う訴訟でひっくり返そうという政治的行動と、家康等の反奉行行動が結び付いて起きた組織的な事件です。PTSDに苦しんだり理解されず逮捕されたりして誤って保安官を殺すなど、追い詰められていって挙兵?したランボーとは異なる部分が多いように思います。
質問者からのお礼コメント
回答ありがとうございます そうです。これが私が望んでいたものです。私が質問として投稿した見解に、専門的な知識を有する回答者様から「その可能性はこのくらいかな」、と意見をもらいたいのです。「そんな史料はない」、と言ってるだけの回答では、回答してもらえた、とは思えません。 その人物を肯定する意見を述べたら、その人物のファンだ、などと言うのはおかしいですね。 詳しく丁寧な回答ありがとうございます
お礼日時:3/7 21:44