中国4大名君 光武帝劉秀・太宗李世民・太祖趙匡胤・康熙帝の中で1番名君なのは、誰ですか? 理由を記して、 教えて下さい。

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光武帝は名君として有名で、曹操・李世民・趙匡胤・康煕帝が憧れていて、彼と同じ事をすれば、天下を取れると思っていた。 毛沢東も彼は人を使う能力、学識の高さ、戦争の強さ全て1番だと絶賛している。 エピソードとして 城の外を出た光武帝が「門を開けてくれ」 門番「時間です。開けられません!」 後でその門番は光武帝に褒められたと云う。 こんな皇帝がいるだろうか! 書ききれないぼどの話がある。

お礼日時:4/16 6:47

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本人の資質は何れも優劣つけがたいので、それ以外の要素で判断しようと思います。 <光武帝劉秀> 他の3帝と異なり、劉秀自身が王朝の創始者となっており、一度滅亡した王朝の復興を旗印として天下統一に成功した唯一の皇帝です。まあ、間にいた王莽の政治が史上最悪レベルに酷かったのと、前漢が滅亡してそこまで時間が経っていなかったため難易度が下がっているのは否定出来ません。 他の3帝がある程度勢力地盤があったものを引き継いでいるのに対し、幼くして孤児となっていた劉秀は叔父に養育され、その叔父も地方の県令に過ぎず、言ってしまえばそこらの町長さんレベル。殆どゼロからの挙兵で天下統一を成し遂げている天は特筆に値します。 光武帝の作り上げたシステムで最大の瑕疵があるとすると、それは間違いなく郡国制。郡国制そのものは前漢でも採用しているものですが、呉楚七国の乱など皇族の権限が大きすぎるが故の不具合を恐れすぎたのか、逆に皇族の権力を削りすぎた感は強いです。そのため後漢代全期間を通じて皇族の存在感がものすごく薄くなってしまい、外戚や宦官の跳梁跋扈を許してしまいました。最初は良かったんですよ、陰皇后も馬皇后も外戚勢力の伸長を自制していたのですから。その後はそうも行かなかったし、さらに幼くして即位し若くして崩御する皇帝が続出するという運の悪さ。 この辺が敢えて失点と言えば失点でしょうか。 <太宗李世民> 父親の李淵が初代皇帝とは言え、自勢力の伸長の大半は李世民の手腕。李淵は後半はむしろついてくるだけの状況を作り上げてしまっていて、これが後に玄武門の変の遠因となっています。 軍事のみならず政治の手腕も一級だったのですが、彼の特筆すべき所は玄武門の変で排除した兄、李建成の幕下から魏徴を採用して自分に諫言を行わせる地位に就けたところ。この自らを律する態度は凡百の皇帝にはなかなか出来ないと思いますし、逆に魏徴のような人材は自らの主君を殺害した人物について行こうなんて思いません。太宗の元に能臣数多あれど、太宗の人物を語るにはこの魏徴の存在が非常に大きいと思っています。罵られて激怒して本人ばかりか連座して数百人を処刑した誰かさんには是非見習って欲しいものです。 さて、太宗の失点があるとすると、それはやはり後継者問題。これについては他の3帝に比べてどうしても劣ります。なぜ、よりによって、兄弟の中で最も凡庸という評価の残る李治を皇太子にしてしまったのか…まあ、他の皇子が色々やらかしていたので、太宗ももう嫌になったのかもしれません。 結果的に李治(高宗)は外戚や皇后自身(武則天)に権力を握られ続け、しまいには皇后に国を乗っ取られるという空前絶後の事態を引き起こしています。 あと、太宗の絶大なカリスマのせいだとは思うのですが、正史を初めとする記録があまりにも太宗マンセーで気持ち悪いという感覚はちょっとあります。いや、本当にすごい人だと言うことで異論はないのですが、さすがに19歳の李世民が李淵の挙兵を画策するというのは話が出来すぎている気がします(旧唐書・新唐書両方に記載してありますが)。太宗の家臣がやったことも(下手すると父親の李淵が行ったことであっても)全部太宗がやったことにされてそうで、何か腑に落ちない感じが無いというと嘘になります。 <太祖趙匡胤> 趙匡胤は何故王朝の創始者なのに劉秀の項目で創始者扱いしていないのか、というと北宋王朝の開始が半ば他力本願的な禅譲劇から成立していたからです。五代の最後の1カ国で、このまま行けば天下統一といった状態にまで勢力を蓄えていた後周の世宗が壮年にもかかわらず急死し、残されたのは齢79歳の皇太子のみ。まだまだ周辺に敵対勢力が数多く残っている中で幼君を戴くことに不安を覚えた軍人が、国防の総帥であった趙匡胤を担ぎ上げたというもの(陳橋の変)です。もちろん最初から仕組まれた茶番という説も根強いこの事件ですが、これを逆手にとって後年唐の滅亡の原因となった節度使の権力を削減するのに用いるあたりは流石と言わざるを得ません。 太祖の特筆すべき点としては、軍人出身であったにもかかわらず徹底して文治主義を貫いたところです。軍人の上に官僚を置いた文民統制を制度化し、科挙の改革を行って大々的な人材投与が出来るようにし、一つ一つの政策を行うにしても軍事力と権力を背景に無理強いするのではなく、粘り強い話し合いによって相手を納得させて行っています。父親と似てすぐにぶち切れて家臣を粛正してしまう誰かさんには見習って(ry この文治主義は近代国家の多くが採用しており、ある程度の規模を持つ国家としてはその走りとも言うべき存在です。 もっとも、この文治主義が行き過ぎた結果、後年北方の異民族勢力に対抗出来ず国を滅ぼす遠因となってしまうわけなのですが、これは契丹の勢力が強くなかった時代の太祖には見通せず、失点とは言いがたいです。 敢えて失点があるとすると、やはり後継者問題。まあ先ほどの李治と違って二代目皇帝となった弟の趙匡義は優秀だったわけですが、その過程がいけない。人事不省となっていた太祖の寝室に当時晋王であった太宗が見舞いに駆けつけるなり太祖の死が公表された、なんて誰がどう見ても暗殺。疑うなと言う方が無理というものです。これも趙匡胤が立太子を行わず後継者を定めていなかったが故の事件です。 <聖祖康煕帝愛新覚羅玄燁> 統一王朝では唯一の「聖」の諡を廟号に持つ康煕帝です。逸周書による諡号のランキングでは「神」に次ぐ位置の「聖」ですが、実際「神」は半ば皮肉の意味でしか使われていないため(神宗万暦帝など)実質的最上位の諡号となっています。これが使われているというだけで他の3帝より上位と判断されている表れとも言えます。さらに4代目にもかかわらず通常初代に限られる「祖」の文字が使われているのも異例。廟号が既に異例中の異例、という状況です。 さて、その内政・軍事については他の3帝同様最上級の評価が成されています。特に康煕帝の場合はちょっと前までせいじをしていたのが悪名高い神宗万暦帝ですからなおさら。質素倹約に励み、康煕帝の頃の1年の清の歳出が万暦帝の頃の1日の明の歳出だったとさえ言われています。まだ王朝が不安定であったため三藩の乱を初めとする反乱も多かったのですが、その都度不眠不休で連日連夜にわたり会議を行い命令を下しており、国のために滅私奉公する様は皇帝の鏡とも言えます。文化的にも、西洋の文化にも興味を持って取り入れ、学問については公平な目でその優劣を見極めています(フェルディナント・フェルビーストの事例など) このような康煕帝の治世において一般的に汚点と言われるのは、明の最後の皇帝である崇禎帝の子供である朱慈煥を、滅亡から60年以上経ってから誅殺したところ。しかもその理由は「謀反を起こした事実はないが、謀反の心を抱かなかったことはないとはいえない」。無茶苦茶な。 いや、分からないでもないんですよね。朱慈煥は滅亡から60年大手を振って生きていたわけではなく名前を変えて隠棲していて、告発があって分かった後には逃亡しているわけです。ある程度落ち着いているとは言え三藩の乱から30年、不穏分子がいれば真っ先に旗印です。普通なら処刑してもおかしくない。これが汚点と言われてしまうほど康煕帝の治世は非の打ち所が無いということでいいのではないでしょうか? なお、康煕帝も後継者問題では苦しんでいます。最終的に皇帝を継いだ雍正帝愛新覚羅胤禛も他の王朝であればトップクラスの名君であったためうまくいったもののそのまま瓦解してもおかしくありませんでした。名君とされた皇帝でも(むしろ名君だからこそ?)頭を悩ませていた後継者問題を、太子密建という形でうまく制度化した雍正帝の手腕も見事で、おそらく最も後継者に恵まれたのはこの4帝の中では康煕帝ではないでしょうか。 何れも優劣つけがたいのですが、後継者に恵まれ王朝の繁栄が長く続いた康煕帝を第一に挙げたいと思います。

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太宗李世民は清濁併せ持つ度量で、中国史上最高の名君と言われています。

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