この文章のおかしい所がよく分かりません。

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

皆さん分かりやすい解説ありがとうございました。お陰様ですんなり理解することが出来ました。

お礼日時:5/5 10:49

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以下参考となるサイト 回答?返信の中で紹介しておきます? 伝わる文章術 ですか 視聴率は信頼できる企業が重要な指標としているから 小論理学解説 http://takamuratetugaku.org/015/015a_text.html http://takamuratetugaku.org/015/015b_text.html http://takamuratetugaku.org/015/015_16_text.html 理由と根拠 のちがい 本質と弁証法関連 前期第一六講 本質論・本質 Ⅲ A 現存在の根拠としての本質(Das Wesen als Grund der Existenz) 「現存在の根拠としての本質」とはどういう意味なのか、ということをまずお話ししておきたいと思います。この場合の「根拠」というのはドイツ語のGrundのことで、理由あるいは原因と訳すこともできます。本質とは、現存在を生み出す根拠になるようなものだ、という意味です。第一四講でも述べましたが、アリストテレスのいう「形相」を念頭に置きながら、それにあたるものとして根拠をとりあつかっていると私は思います。アリストテレスは『自然学』(フュシカ)のなかで「自然学は対象事物の第一原因を確立することにある」と述べています。ものごとはいろんな因果の系列でつながっているけれども、その根本になる原因、第一原因を知ることがものごとを本当に知ることになるのだというのです。そして形相因、質料因、始動因、目的因の四つの原因を第一原因の構成要素だとしてあげています。 この形相因が本質にあたります。「形相」とはどういう意味かというと「物質の実体でありこれはその事物のそもそもの何であるか」における、その「何」が「形相」なわけです。だから、そのものの本質は何なのかが形相ということになるわけです。本質を物事の一つの原因、形相「因」としてとらえているのです。この形相因の「因」は原因ですから、ヘーゲルは「本質は現存在の根拠である、原因である」といっているのです。つまり或るものが或るものとして存在するというのは、或るものの本質があらわれ出ることによって、そのものがそのものとしてあるという理解です。 ですから「現存在の根拠あるいは原因としての本質」という言い方になっているのです。本質とはすべての物質を生み出す根本的な原因になっているということです。目次をみますと、次のような構成になっています。 A 現存在の根拠としての本質 a 純粋な反省規定 イ 同一性 ロ 区別 ハ 根拠 b 現存在 c 物 最初のaの「純粋な反省規定」では、本質は同一と区別の統一としての根拠である、ということを述べています。ですから「純粋な反省規定」の項目をさらにみてみると、同一性、区別、根拠というようになっています。本質は同一性と区別の統一であり、同一と区別の統一としての本質こそ、現存在の根拠になる、ということが「純粋な反省規定」では述べられております。ついでbの「現存在」では、本質によって根拠づけられた実在が現存在であることを考察します。最後のcの「物」では、根拠づけられた現存在、それが物である、という見地から物をみているのです。ただこの「物」というのは、われわれ唯物論者が物質といっているのとは、ちょっとカテゴリーが違うので注意をして読む必要があるだろうと思います。 それではまず「a 純粋な反省規定」の最初の「イ同一性」のところ、第一一五節に入りましょう a 純粋な反省規定(Die reinen Reflexionsbestimmungen) イ 同一性(Identität) 本質は区別を含む同一性 一一五節 本質は自己のうちで反照する。すなわち純粋な反省である。かくしてそれは単に自己関係にすぎないが、しかし直接的な自己関係ではなく、反省した自己関係、自己との同一性(Identität mitsich )である。 「本質は自己のうちで反照する」。有が自分のなかへ入っていって、反省したのが本質です。ですから、本質と有との関係は、或るものの内部における関係(自己関係)であって、他のものには関係しないのですが、相互に影響しあう関係だというのです。本質は「反省した自己関係」、つまり有の反省として生まれたものなのですでは、その有の反省から生まれた本質というのは何なのかといえば、それは有との同一性だ、といいます。有はいろいろと変化するわけです。いろいろな現象形態をもっているわけですが、その中にあって常に変わらないもの、同一性が本質なのです。 略 http://takamuratetugaku.org/015/015_18_text.html 本質は根拠 後者の場合には、後でわかるように、それはまず根拠であり、より高い真理においては概念である。 これはたいへん重要な指摘です。ヘーゲルのいう同一性は、区別を伴った同一性、同一と区別の統一です。これがまず「根拠」であり「より高い真理においては概念」となるのです。同一と区別の統一としての本質が根拠であるというのは、本質は現象となってあらわれるわけであって、内にある本質が外に出てくるわけだから、このあらわれ出てくる点をとらえて根拠といっているのです。 概念もまたある意味では、そのように内から外へ出てくる力なんだといっており、これは非常に大事なところです。概念というのは「概念論」で詳しく学習しますが、言いかえれば理念、理想といってもよいものです。理念、理想というのはいつまでも頭のなかにとどまっているものではなくて、それは現実となる絶対的な力をもっているのであり、そういう意味では本質と共通したところがあるというのです。いま根拠を概念に関連させて議論しているわけですが、まず根拠は同一と区別の統一であるとしたうえで、これをより発展した形では、直接性と媒介性の統一であり、それが概念論でいう概念なんだとも述べています。こうした意味から「根拠」の「より高い真理」が「概念である」、というのです。ここではこの程度しか述べておりませんが、また後で詳しく学習することになりますので、ぜひとも頭のなかに残しておいて下さい。 ヘーゲルは、ものごとの真の姿は何なのか、ということを一貫して考えるわけです。有論とは、ものごとの表面的な姿の認識です。本質論とは、そのものごとの奥にかくされた真の姿の認識です。概念論は、そのものごとを越えた真にあるべき姿の認識です。そういう意味で、根拠のより高い真理が概念である、という言い方をしているのです。ここにも、概念論の布石がうってあるのです。 根拠というものは、一定の意義をもちながらも、限界をもっているのだということがいいたいのです。日常生活でもあるいは普通の経験諸科学でも、この反省形式、つまり根拠あるいは理由というものをしばしば用います。理由をたどることによって、そのものの本当の姿に接近できるというのは正しいことであり、意味のあることなんですけれども、こういう認識の段階で満足してはいけないとヘーゲルはいうわけです。 なぜなら「この方法は理論においても実践においても決して決定的な満足を与えることはできない」からです。というのも「根拠というものはまだ絶対的に規定された内容を持たないから」です。「絶対的に規定された内容」とは、そのものがそうあるべくしてあり、それ以外のものではありえない、という意味です。 根拠とは、事物を直接的なものではなく、媒介されたものとみるだけのものにすぎないのです。つまり、何でもいいから理由がつけられさえすれば根拠になるのです。そのような単なる媒介の認識ではわれわれは満足しないわけで、本当に認識しようと思えば、そのものがそうであってそれ以外のものではありえない、という必然的な媒介性において認識することが大事なのです。それを「絶対的に規定された内容」といっています。実は、この「絶対的に規定された内容」が、概念論でいう概念なのです。 以前、概念論の布石であると指摘しておいたところを振り返ってみましょう。一一四節において本質は同一と区別の対立物の統一だということを述べているのですが「本質の領域は、直接性と媒介性とのまだ完全でない結合」だという文章があります。本質論でも媒介性は議論するのですが、まだ直接性と媒介性の完全でない結合の段階にとどまっています。だから物事の本質を考える、理由を考える、根拠を考えるというのは、まだまだそれだけでは不十分であって、もっと高い認識に到達しなければならないのです 表象イメージ プラトン、ソクラテス、アリストテレス ルソー、ヘーゲルなど 事実と価値 経験論ロック不可知論ヒューム 没価値論二元論新カント派ウエーバー ヘーゲル難しい 訳しても読めても意味がわからない説 訳読と原書講読のおおちがい 英語長文読まなくても背景知識教養あれば問題解ける説 現代文評論大学入試受験の解法テクニック 言い換え 司法試験予備試験一般教養論文試験解法 ロジカルシンキング研修 形式論理学帰納法演繹三段論法 弁論術修辞学アリストテレス 要件事実うれしい教室 こじつけ屁理屈へりくつと本質との関係 ソフィスト 哲学サイト 法学 法哲学法思想ほか 経済学 物理学 数学 社会学 政治学概論 大学教育について 勉強学問の価値 学歴と就職 価値観没価値論不可知論二元論主観的観念論諸派 哲学史科学史思考史 数学史物理学史 アカデミックライティング英語の論理放送大学 英文読解の要点整理学研

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理由と結論を書き出してみますと、 企業がテレビ局と契約を結ぶ際の重要な指標となるので(理由) 視聴率は信頼できる(結論) のか、 視聴率は信頼できるので(理由) 企業がテレビ局と契約を結ぶ際の重要な指標となる(結論) のか、 後者の方が論理的です。 したがって、 質問の文章はおかしい、結論と理由があべこべである、 という事になります。

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結論から申しますと、質問者さんの疑問はもっともです。 おかしくないのです。 つまり、 >結論と理由があべこべでおかしいと指摘されています。 という指摘の方が、実はおかしいです。 なぜ、おかしいとしてしまうのか、その理由は、 元の本文の主旨を、 「視聴率は信頼出来る。なぜなら企業がテレビ局と契約を結ぶ際の重要な指標となるからだ。」 ととらえてしまったことにあると思われます。 確かに、この文だけで判断するならば、理由と結論とがあべこべです。 「視聴率は信頼出来るものである」 だから、 「企業がテレビ局と契約を結ぶ際の重要な指標となる」 とするのが論理にかなっていて、その逆はどう考えてもおかしい。 まさに他の回答者の方々も説明されている通りです。 でも、元の本文を、注意してよくよく見ていただきたいと思います。 少し違っているはずです。 視聴率は、基本的には信頼できると言っていい。なぜなら、今日でも、企業がテレビ局とスポンサー契約を結ぶ際、視聴率は最も重要な指標となっているからだ。 ということです。 ここで「今日でも」という語句が決定的に重要です。 企業が、今も昔も視聴率を重視し続けているということです。企業というものは、いつでも倒産する可能性があります。その企業が、視聴率を信じたことで経営を存続できているということなのです。このことは、視聴率には信頼がおけるという十分な証拠になります。「継続は力なり」ということです。 経営用語で言うゴーイング・コンサーンです。元の本文からは、そこを汲み取るべきでしょう。

論理として正しいかどうかの問題だと思います。 「視聴率は信頼できる」という主張が正しいかどうかとは別問題でということです。 私が言いたいのは、元の文は論理としておかしいと、この文章では指摘しているのだけれども、実はそうともいえないのではないかということでした。 あくまでも、論理として正しいかどうかという問題です。 「視聴率は信頼できる」という主張が正しいか否かと言われれば、まったく違う話になることをご理解ください。

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視聴率は信頼出来る。なぜなら企業がテレビ局と契約を結ぶ際の重要な指標となるからだ。 ではなく、 視聴率は信頼出来る。だから企業がテレビ局と契約を結ぶ際の重要な指標となるのだ。 の方が自然ですよね。つまりこれが、判断の根拠と結果が逆だということなのです。 あの人は口が堅い。だから、みんなが相談に訪れるのだ。 という文なら理解できますが、 あの人は口が堅い。なぜなら、みんなが相談に訪れるからだ。 は、おかしいですよね。これと同じです。

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根拠になりません。 指標として使われているからそのデータが正しい、ということにはならないからです。 正しいと証明されれば、指標として使う根拠になります。だから「あべこべだ」と指摘されているのです。 しかし実際に業者が、視聴率を調べる機械を置いてある家に頼んで特定の番組の視聴率がいいように装った事件がありました。 視聴率は信頼できないのです。

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