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2021/4/30 10:13

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合理的に判断すれば、かなり優秀な人が高校に行かない選択も有りではないでしょうか? 落ちこぼれの反対に、浮きこぼれという言葉があります。

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質問者2021/4/30 18:26

ありがとうございます。 「人生逃げ切りサロン」を運営する、やまもとりゅうけん氏(プログラマーとしてサイバーエージェントの仕事をしていた経験があるそうです)もフリーランスでのコミュニケーション能力の重要性をYouTubeで話していました。 一方で、ホリエモンは、「今だったら小学校も行かない」と、よく言っています。 対人関係のホリエモンの見解は、「今の時代ならば、FacebookやさまざまなSNSを使えば、多くの人と出会える。学校に行って、同じ年齢の人と合わなければいけないということはない」と、よく言っています。私が言っているわけではないですよ。 また、世界一のYouTuberになったライアンカジ君の例もあります。 特殊と言えば、特殊ですが…。 何かの大きな出来事があれば、教育にも多様化の波が訪れそうだとは思います。 しかし、それがいつで、何が起きるのか、さっぱり分かりません。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

私の考えは、荒かったなと気づきました。 勉強になりました。 ありがとうございます。

お礼日時:5/11 18:42

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学歴はないよりあったほうがよい 学歴と就職とフィルター http://siseikan.biz/now/%E3%80%8C%E5%B0%B1%E8%81%B7%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E5%AD%A6%E6%AD%B4%E3%80%8D.pdf 学問 勉強は、決してお金もうけや出世のためだけにしているのではなく、むしろ自 分自身を豊かにし、人生を楽しくし、生きることの尊さを知るために必要であ る。だから一生懸命に勉強しているのである。 しかし現在の資本主義社会はすべてのひと人が生きていくための収入を 得るための競争をしているから「お金を得るために勉強しているように見える」だけなのです。 進学や就職 それとは別に学問勉強の価値の件 高校というか 大学教育というか 大学教育について ミル 岩波文庫 https://viewer-trial.bookwalker.jp/03/9/viewer.html?cid=75a98910-6c1c-491b-be0d-3bbd9268f242&cty=0&adpcnt=7qM_t 学問の件 と コロナの件がなくても火曜曲の質問の中であった 家の時間を充実させるためにはどうしたらよいですかの件 (誰にでもある話) 江戸時代の鎖国でも完全な閉国ではないのですよ長崎の出島などがあったからの例示 せきつい動物のうつ病の脳の扁桃体防衛反応があるので、朝日浴びてセロトニンをつくりましょう。軽く体操や散歩をして。 読書は一生必要 https://m.bilibili.com/video/BV1ix41167J6 今の時代 インターネットがあり、引きこもりの否定的自由の形式的自由 の意味も知ろうすれば知ることはできる。でもそれを見つけ出すのもそれなりの表象イメージをつくる力、抽象力、読解力、思考力が必要となる。 そこからヘーゲルは、自由という問題は客観世界との関わりにおいてはじめてとらえることができるのだろうと理解します。そういう見地からヘーゲルは、自由を大きく四つの段階に分けています。第一の段階は、客観世界の存在自体を否定してしまう自由、否定的自由とよんでいます。達磨和尚は面壁八年、壁に向かって八年間座禅を組んで悟りを開いたといわれています。悟りを開くとは最高の認識に到達することですから、壁に向かって悟りを開くということは、客観世界には壁以外のものは存在しないという立場ですから、いわば、客観世界を否定して自己のなかにのみ沈潜するということです。そのように客観世界を否定する生き方、これが否定的自由です。最近の閉じこもり現象はある意味で、否定的自由の一つの現れでしょう。家の中の範囲に限ってを客観世界を認めて、それより外は認めない、認めたくない、認められないから一歩も外に出られないということになるわけです。しかし、こんな自由はきわめて限られたものでしかないということはすぐにお分かりでしょう。 そこで、二番目の自由は、客観世界の存在は認めるけれどもそれとはまったく関係なしに自分の自由な意志で自分の行動を決めるというやり方、ヘーゲルはそれを形式的自由とよんでいます。形の上では自分の意志で決めるかぎりでは自由といえなくもないのですが、客観世界のあり方、法則性、必然性を無視するやり方ですから、それは形式的には自由かも知れないけど内容的には不自由なので、それは形式的な自由でしかないといっています。 三つ目の自由は、普遍的自由です。つまり、客観世界の法則性、必然性を認識したうえで、その法則にもとづいて行動する自由です。『反デューリング論』というエンゲルスの有名な本の一部を取り出したものに、『空想から科学へ』という有名な古典があります。このなかに自由論がでてきますが、科学的〇〇〇〇の自由論はこのヘーゲルの自由論を引き継いでいますから、エンゲルスが、資本主義から社会主義への移行は「必然の国から自由の国への人類の飛躍」であるといった、あの「必然」と「自由」の使い方というのはヘーゲルからきているわけです。 では、人間の自由の問題は必然的自由にとどまるのかといえばそうではありません。先ほど論理学のお話しをしましたように、変革の立場は人間の一つの本質的特徴でして、変革の立場は、客観世界の法則性を認識したうえに立って、さらに客観世界をよりよいものにつくり変えていくという、そういう自由になるわけです。それをヘーゲルは概念的自由といっています。つまり、現にある姿のなかから、真にあるべき姿を見出して、それを実現するところに人間の最高の自由を認めようという立場です。 このように自由を四段階に分けたうえで、ヘーゲルは、人間が人間の本質である自由な意志を存分に働かせて、より自由になっていくところにより善く生きるという問題があると考えるわけです。 略 人間それぞれ自分なりの夢や希望があるわけで、もっと上手になりたいとか、もっと強くなりたいとか、もっと豊かな暮らしをしたいとか、もっと人に認められたいとか、いろんな気持ちがあるわけで、これは、より善く生きたいとという気持ちの現れです。 ですからこういう個人的により善く生きるという問題の、より善い生き方、より善い真にあるべき姿はどんな特殊なものにでも見出すことができるのです。趣味の世界のなかにも見出されます 「吹けば飛ぶよな将棋の駒でもより善く生きる対象になる」とレジメにも書いておきましたが、これは、かつて〇〇〇〇という歌手が〇〇〇〇を歌った「王将」という歌のなかに出てくる文句で「吹けば飛ぶような将棋の駒に、賭けた命を笑わば笑え」というのがあるのです。これは見事に個人としてより善く生きる問題とその限界を現したものです。 つまり、将棋というのは、大変いい趣味だと思いますが、いい趣味ではあっても所詮、一つの趣味です。だからそういう将棋の駒に生き甲斐をかける、命を賭けるというのは、あるいは笑われても仕方ないかもしれないが、それでも私はこの生き甲斐を選ぶという意味でしょう。そのようにどんなに特殊なものにでも、個人的なより善く生きる目標を見出すことができます。 場合によれば、非現実的なものにも生き甲斐を見出すことはできるわけです。それが宗教というものでしょう。 西暦はキリストの誕生をあらわしていますから、二〇〇五年前にキリストは誕生して、原始キリスト教が生まれました。当時は奴隷制社会です。奴隷として生まれてきたものは一生涯奴隷として過ごさなければなりません。奴隷というのは牛や馬と同じですから、いっさいの自由は存在しません。いっさいの人間らしい営みは許されないわけです。そうしたなかでキリスト教は、爆発的に奴隷の間で支持をうるところになります。何故かというと現世では夢や希望を持つことはできないけれども、来世では君たちの未来は保障されているということを原始キリスト教は訴えたからです。ですから現世に生き甲斐を見いだせない奴隷たちは、来世に生き甲斐を見いだそうとしてキリスト教を信仰するようになりました。このキリスト教は「スパルタカスの乱」など奴隷の反乱のスローガンにもなって、奴隷たちを励ますことにもなりました。 ですから個人的により善く生きるための目標というのは、どんな特殊なものにも見いだせると同時にまったく非現実的なものですらその目標となりうるということを意味しています。その意味ではより善く生きる目標になるものは、全く無限定であり、何でもいいということになってくるわけです。 しかし、そうであっても個人が自分らしい目標を定めて、その目標に向かって生きていく権利、それは人間の主体的自由の権利として、絶対に保障されなくてはならないと主張したのがヘーゲルです。現代の用語で幸福追求権といわれています。 憲法一三条には、「すべて国民は個人として尊重される。生命、自由および幸福追求に対する国民の権利については最大の尊重を必要とする」と規定されています。幸福追求権というのがでてきますが、正確に調べたわけではありませんが、おそらくこの語源はヘーゲルの『法の哲学』にあるのだろうと思います 個人が自分らしくより善く生きるためには、幸福追求権が保障されなければならない。どんなに限定された目標であっても、どんな非現実的な目標であっても、自分が目標を定めてその目標に向かって前進することで満足をうる権利が保障されなければならない。これが幸福追求権の中味になっています。 しかし、この個人としてのより善く生きる生き方は、どんな普遍的自由、概念的自由に到達したとしても、その目標からしてもちろん限界があるわけで、場合によればきわめて独りよがりな生き方になってきます。そこからヘーゲルは、個人としてより善く生きる権利、別の言葉でいえば、個人の尊厳にもとづく幸福追求権が認められなければならないけれども、そこにとどまってはならない、人間である限り、個人としてより善く生きるだけではなく、人間としてより善く生きることが必要なのだと考えたのです。 人間が人間らしくより善く生きる問題も大きく二つに分かれます。一つは個人の内面において、人間らしくより善く生きるということです。それは言い換えると、人間としての真にあるべき姿を自分の目標に定めて、それに向かってより自由に生きるということです。その目標を理想といってもいいのですが、哲学的には理念といっています。 人間としての真にあるべき姿を理念として頭にえがいて生きる生き方によって人間の生きる目標は特殊的な目標から普遍的な目標に発展します。将棋の駒に命を賭けることはできるけれども、それは普遍的な人間のより善い生き方ではありません。 略 とのことです。 制限と当為 ヘーゲル用語辞典参照 基礎英語長文問題精講旧版 パート2 問題28 https://ukaru-eigo.com/kiso-eigo-chobun-kaisetsu-28/amp/ 職業に関する学問 自主的に考え判断する一般的な能力 自分や自分の住む世界の中に調和を見出す価値観

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大きな難点がある。 内容がよく分かっている授業を受けても時間の無駄というのはその通りだが、インターネットは代わりにはならない。 そういうのは「都市伝説」の類で、ちゃんと体系的に知識を学ぶことは、インターネット上の雑多な情報だけではできない。雑多な情報の寄せ集めは極めて学び効率が悪いのだ。 学校は昔から知識を効率よく学ぶために作られてきたし、そのために特化してきた社会制度だ。すなわち人類の知識が効率の良い形で段階的に提供される。 ゆえに、ある段階の内容がよくわかっている人のためには、どんどん先の段階へと進めるようになっているだけでよい。また社会人とて学生時代に学べなかったことをいつでも学べるようになってさえいればよい。 だが日本の学校は現在そうなっていない。だからこそ弊害があるのだ。 戦後、現代までの学校は、社会の年功序列システムとそっくり同じにされてきた。年功序列だからこそ、学歴というものができた。 学びの中身や程度でも、その積み重ねでもなく、ただ卒業学校と年齢で決まった序列だけでトコロテン式に人生が決まる機械システムだ。 すなわち、インターネットだなんだ言っても、獲得した知識や技能を正当に評価できる社会システムが存在しない。 ゆえに一足飛びに、まとまった体系すらないただ雑多なだけのインターネット上での知識だけで能力を測ろうとしても全く無駄で、かえって学歴システムの序列の優位性を証明し強化するだけに終わる。 起業家でもフリーランスでも日本の実業家やビジネスマンの欠点は、体系的知識を学ぶ機会がないことに尽きる。その点他の先進諸国に著しく劣る。 ろくに講義にも出ない大学時代を過ごし、卒業後は学問上の知識に全く触れることなく、ただあくせくと感性任せのブラックワークだけをこなすのでは、やたら頭脳資源を浪費するだけで終わるのだ。 ゆえに学校に行かずにインターネットの雑多な知識だけにしか触れないのであれば、おつむの働きにおいて先進国どころか途上国にもはるかに劣ることになるだろう。 世界の文明が何故これまで発展できたのか、また途上国でも新興国でもなにゆえ学問の学校教育を重視し強化し続けているのかには、大昔からの厳然たる理由があるということだ。 なのに学校教育によって発展してきたはずの日本が、何が悲しくて学校教育の改善をせずにただ捨てさるなどという無謀で粗暴で愚かなことをせねばならぬのか? そのような発想は、奴隷にエサ(インターネット)は与えても教育(学校)を与えたくない上級支配気取りの連中のものだ。知は力だということを知っているからこそ、奴隷を暗愚なままにしておきたがる。

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自分は子供の頃は勉強が出来ました。 小学校の時は1年間、毎週1回知能テストを受けてました。学校以外では勉強しませんでしたし塾に行ったこともないです。 高校も大学もどこでも大丈夫と言われて、高校は全教科満点で入学しました。 いまは画家をしています。 画家はもちろんフリーランスですし、世間からはひとりで仕事をするように思われていますが、フリーランスだからこそ人間関係の構築が大事なわけです。 最大規模の美術団体の運営もしていますし。 高校とか大学は勉強なんかよりその時代に必要なものがあるわけですよね。 高校時代なら友達とか恋愛とか・・・大学時代なら様々なひととの出会いとか・・・それらはその年齢には必ず必要な経験なわけです。 自分はもう高齢ですが、高校時代とか大学時代の大事な思い出があるから生きてられると思っています。 高校や大学時代で大事なのは学歴だけではないと思いますけど・・・ そして画家の世界であっても美術の業界であっても、イメージ的には学校の教室のメンバーと同じです。いろんな考えのひととうまくコミュニケーションをとって最大の成果を出していかないとダメなわけですから。 優秀だろうとそうでなかろうと、高校時代や大学時代を経験せずに歳を取ることはすごく勿体ないです。

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あり得るというか、もうそういう選択をする人(と親)はいますね。 たしかに1人で勉強できる人にとっては、学校に行かない方が効率はいいと思います。 でも、高校へ行かないことで失われる機会も多いことを知った方がいいです。 学校には頭のいい奴も悪い奴もいます。 性格が明るい奴も落ち着いている奴もいます。 金持ちの家の子もいれば、貧乏もいます。 それぞれ違う人間と触れ合うことで、人はみな一様でないことを知ることができるんです。 それってものすごく大切なことですよね。 起業家やフリーランスを目指すなら、むしろ学校へ行くべきでしょう。