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第二次世界大戦の頃アメリカ人でさえ平均身長が171ほどで、日本だと156くらい。男で。

ヒト | 世界史96閲覧

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日本でも徳川の海禁政策実施前はけっこう長身で、平均160㎝くらいです。鎌倉時代でも関東の領主層は170位の人がけっこういました。海禁策の江戸時代に小柄が尊ばれて次第に平均身長が下がった見られています。 体が小さくなるのも大きくなるのも性選択が直接要因です。つまり騎士として活動するには大柄な方がよく、荘園を維持するにも大柄がこのまれるため、大きな女性や男性がこのまれ子供を作る機会に恵まれて長身の人が増えます。 あとは食糧事情が改善されると大柄な人が子供を作る機会が増えます。食糧生産に限界がある時代だと大女は特にうとまれます。騎士階級は食料を獲得しやすいが大衆はそれが不利なので一般に小柄ですが、近代農業革命の結果先進国では食料供給が増えて大柄でも不利でなくなったのでしょう。 もう一つ気候要因があります。寒冷地では動物の平均体格は大きくなります。容積のわりに体表面積を小さくすると体温維持しやすいからです。 トラでもシベリア虎はがっしりとした大型ですが、南アジアの虎はほっそりしています。 人間も北欧人が長身でがっしりしているのはそのせいです。 地形も関係します。山岳地帯は概してあまり大柄になりません。 山岳地帯でも戦争がおおいと大柄になることもあります。 気候、戦争、食糧事情、島国であるか大陸かなどの要因が文化変容を起こし性選択の行動を支配し、その民族の体格を変化させます。 現代でも日本では大女は肩身が狭いです。前時代の名残りです。わたしも大して大きないのですが165cm、たまに大きいなといわれます。

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栄養が良くなって体躯は向上しましたが、その中でもアメリカ人は異常です。WW2を描いたプライベートライアンで、おそらく当時はいなかったであろう、脚長ほっぺだけ肥満体型の兵隊がいて、興醒めしたものです。チキンやハンバーガーなど高タンパク高脂質を食べ付けていないと、あそこまで大きくなりません。 https://youtu.be/Ce8P86UG6PE 戦後20年くらい経って放映されたコンバット!、と言うテレビシリーズでは、まだアメリカ人の主要タンパク質供給源はマメ、痩身で引き締まった体付きの兵士たちがまだ戦場の過酷さをお茶の間に伝えます。 おそらく、バンドオブブラザーズやブラックホークダウンでも、アメリカ人俳優を使うと、大柄になりすぎるので、イギリスやオーストラリアの俳優を使っているようです。 アメリカンスナイパーなど現代劇なら、いくらマッチョさんを使ってもらっても構いませんが、プライベートライアンの消息を知っていると言う同僚兵士が、うすらデカくてほっぺたパンパン?、これはいただけません。 家庭に冷蔵庫が普及し出したのも1960年代以降、流通が変わって大規模スーパーが建つようになったのが1970年代、牛肉の関税撤廃なども1980年代、アラカン世代ですが家で牛肉食べるのはすき焼きで年に数回だけでしたよ。牛乳のリッター紙パック売りをするようになったのも1970年代、おそらくそれを受けて、1980年代のプロ野球のドラフトで180センチを超える選手が当たり前になって来たかな、って感じです。それまでは米と魚食で、今みたいな足長タイプの選手なんていませんでしたよ。動物性タンパク質を小さい時から摂ると小腸が短くなって足長になりますね。 カロリー統計なんかが変化が分かっていいんでしょうけど、WW2当時の食事では、人間の成長力のポテンシャルをフルに引き出すにはまだまだ足りていなかったのでしょう。

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ボ、ボクは小学生でしゅが・・・ >> 発達加速現象 - acceleration〔in_physical_growth〕 世代が新しくなるにつれて,身体的発達が促進される現象 。 身長・体重・胸囲などの量的側面の加速化という成長加速現象と、初潮・精通など性的成熟、乳歯・永久歯の初歯・生歯完了といった質的変化の早期化という成熟前傾現象がある。 これらの要因としては、栄養状態の改善、生活様式の欧米化による影響、都市化に伴う種々の刺激の視床下部・自律神経系への影響や婚姻圏の拡大による異型接合による効果などが挙げられている。 >> 発達加速現象の原因論 日照説・気候説 栄養説(タンパク、脂肪、砂糖、その他) 都市人間累積仮説 ヘテロシス(雑種強勢説) 都市化外傷説、刺激・ストレス要因説 進化発達心理学的原因論 ■その他■ 発達加速の生起しない環境もある >> 日本における産児制限の目的は何であったのか、運動家たちの主張から検討すると、以下の4点に集約できる。まず、第1の目的は、貧困からの救済である。貧困の原因を何に求めるかによって、運動家の立場を2種類に分類できる。1つめは、新マルサス主義の立場から、貧困の主な原因を過剰人口とみなす。2つめは無産者運動の立場であり、貧困の原因は人口増加ではなく、「誤った生産と分配の方法を条件づける生産機関の私有を基礎とする資本主義制度」(野田1923)とする。しかし、いずれにせよ、貧困者をさらなる生活難に陥れないために産児制限を推進する姿勢には変わりはない。多産による生活難は、栄養不良による体力・抵抗力の低下、病人の増加、労働能率の低下をもたらす(羽太1922、石本1922、澤田1922)。 さらに、子どもの教育を重視する言説も多い。貧乏は「社会的疾病」のひとつであり、それを解決するのは中等・高等教育である。貧民階級が多数の子どもを無智無学のまま社会に送り出すことは、悪疾遺伝を持つ子どもを社会に送り出すことと同じくらい恐るべきことなのだ(安部1931)。他方、食料に事欠き、相当な教育を受けることができないような家庭に生み落とされることは、子どもにとって「悲惨の極み」(羽太1922)と述べるなど、子どもの立場を考慮して出産を決めるべきだという言説が目立つ。 産児制限の第2の目的は、人口過剰問題の解決である。大正末∼昭和初期においては、人口過剰による食糧不足問題が社会問題化していた。日本の植民政策は効果が少なく、人口増加は戦争を引き起こす危険性がある。国際紛争を防止するには、自国内で人口を扶養できる程度に、人口を制限しなければならない(安部1931、羽太1922、石本1922)。 産児制限の第3の目的は、母体保護=多産からの女性の解放、および「女性による生殖の自己決定権」の獲得である。多産は母体の健康を損ない、女性から自己修養の時間を奪う(羽太1922、織田編1923、馬島1931、名古屋1931)。また、女性の立場から、妊娠・出産を決定するのは女性の「権利」であり、その疲労や苦痛を経験しない男性や国家に出産を強制する権利はない、という主張も現れた(野田1923、織田編1923)。 産児制限の第4の目的は、人間の質の向上(人種改良)である。産児制限運動は、優生学との結合の上に成立していると主張され、親が悪疾遺伝を持つ場合は、断種(不妊手術)が奨励された。 >> 以上のように、アメリカやイギリスにおけるバースコントロール運動の社会的受容が、優生学との関係を強化することによって進行したのと同様に、日本の運動でも優生学の観点から産児制限が必要だという主張が多かった。その理由は、産児制限は逆淘汰をもたらすという批判、すなわち、知的で優れた階層では積極的な避妊を行うため低出生率となり、知性に欠ける劣った階層では避妊が行われず高出生率となるため、結果として人口に占める「劣悪者」の比率が高まり、人口の平均的資質が低下するという批判を克服するためであったと考えられる。ここで、注意すべきことは、産児制限運動家が優生学の観点から産児制限の必要を主張する際、優生運動家に比べて、遺伝と環境を理論的に区別せず、環境要因を重視する傾向があったことである。このことは、戦後の優生保護法において、断種(優生手術)の適応範囲が拡大されたことに影響を及ぼしたと考えられる。 さて、以上のような目的をもっていた産児制限運動を支えた思想はどのようなものであったのだろうか。第1に、この運動では、子に対する親の責任が強調された。親孝行のみを重視するのは親の利己主義であることが批判され、子を教育する親の義務が強調されたのである。また、親が子どもを労働力とみなす考え方や、子に老親扶養を期待する観念から脱却すべきことが説かれた(羽太1922、澤田1922、野田1923、馬島1931)。 第2に、この運動では、従来の「子宝」思想への強い批判がなされた。生まれたすべての子どもが「子宝」なのではない(澤田1922)。「子宝」とは、「教育されて一人前の人間となれる資格があるものに、与へられた名」(澤田1922)であるという主張や、「子宝」とは「生むことを望んだときに生まれたり、その子の成長が両親に幸福な結果を与えたりするときに使はるべきもの」(織田1923)といった主張が現れた。 第3に、この運動では、人口増殖力を国力の源泉とみなす考え方へのアンチテーゼとして、出生数の減少は文化の進歩を示すものという主張がなされた。「国運発展の徴候」を示すのは人口の量ではなく質だからである(安部1931)。また、最も繁殖力の強いのは黒人種、次いで黄色人種、白人種の順であり、繁殖力の強さは「野蛮未開の一証明」であるという主張もあった(羽太1922)。さらに、小児死亡率の高さを「文明国の恥」ととらえ、多産は多死を招き、「精神薄弱」の者を増加させるという主張もあった(石本1922)。 これらの思想はいずれも、戦後の家族計画運動の思想とひじょうに類似していることが注目されるが、これについては次章で論じる。 >> 家族計画運動と優生運動はどのような関係にあったのか。このことは、戦後アメリカにおける優生運動の中心人物、フレデリック・オズボーン(Frederick Osborn)の次のような主張の中に、端的に表現されている。ゴールトンの提唱以来行われてきた優生運動が世界中に拡大しない原因は、自分の特性を形成している遺伝学的基盤が劣っており、それを次世代に伝えるべきではないという考えを、人々が受け入れないからである。したがって、別の動機を人々に与えなければならない。それは、経済力があり、責任を引き受けることに喜びを感じ、身体的に強く適格である場合には子どもをたくさんつくり、反対に、それらに該当しなければ多くの子どもをもたないよう、心理的な誘導を行うことだ。効果的な家族計画の手段をもてば、人々は多くの子どもを産まないだろう。そのような基盤の上に、「本人は気づかない自発的な淘汰のシステム」を築くことができる。「あなたは遺伝的に劣っている」と言うのをやめ、子どもたちは愛情あふれた責任のある世話ができる家庭に生まれることが望ましいのだ、と提唱しよう(Osborn 1956)。 オズボーンは、優生思想を背後に隠しつつ、家族計画の理念や手法を活用することにより、「本人は気づかない自発的な淘汰のシステム」の構築、すなわち優生思想を内面化させることを目指したのである。 日本の家族計画運動においても、優生運動との強い結びつきが存在していた。戦前に民族衛生学(優生学)の普及を目指していた古屋芳雄は、戦後、中絶の増加を防止するために家族計画運動に参入し、日本家族計画連盟の会長、国際家族計画連盟の副会長を務めた。古屋は1952年に、悪質遺伝をもつ者はそのことを隠そうとするため、優生手術の推進には限界があるので、貧困層の「生みっ放しで、生れた子供に対して特別の責任を感じないような連中」に重点を置いて産児調節を普及すべきだ、と発言している(古屋他1952)。古屋もまた、オズボーンと同様に、従来の手法による優生学の普及に限界を感じ、家族計画運動に参入したのかもしれない。連盟は1967(昭和42)年に、人間の資質を向上させるため、古屋を委員長とする「優生委員会」を設置、全国に優生思想を普及させる活動を開始した(『家族計画』:1967)。 高度経済成長期には、「人的資源の向上」が国家目標とされ、未熟児対策や心身障害児対策など医療・福祉政策が目覚ましく発展する一方で、障害の発生予防対策が推進された。日本が福祉国家の形成を目指す過程で、優生政策が強化されていったのである。このような文脈の中で、日本家族計画連盟における優生運動が展開したことを理解しなければならない。 以上のような家族計画運動および優生政策が展開する中で、1950年代∼60年代には、出生率の低下および■出産行動の画一化■が起こった。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%A1%8A%E3%81%AE%E4%B8%96%E4%BB%A3 http://hirage.cocolog-nifty.com/diary/2012/03/2012314-a2f1.html

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食生活の差じゃないですかね。 畜産が盛んなオランダやデンマークは大男が多く 漁業が発展していたスペインやイタリアはわりかし小さいです。

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第二次世界大戦の時のアメリカの若者は、幼少期を大不況で不景気な時代に育ったため、その前の世代より、貧弱な体形だったそうです。 ヨーロッパの若者も、同様の理由です。 日本の若者は食生活における動物性タンパク質が絶望的に不足していました。 両国共に、戦後食生活改善により体格は大幅に向上しました。