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2021/5/28 4:44

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三国志の劉備と共に旗上げし、その後母の世話のために劉備と別れた田豫という人物がいて、曹操の下でもかなり活躍したようですが、Wikipediaによると南陽太守になったようです。南陽というと、一時劉備がいた新野と

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田豫の場合は母を理由に、単に劉備から離れただけのようだから(実際その後は公孫サンに仕えている)あまり深い意味はないと思いますね。 徐庶と違い、曹操に母親が捕まったとかでもありませんし、誰に仕える、と言うよりは普通に国、官に仕える、と言う意識だったのだと思います。 と言うか普通はそう言う人がほとんどで、曹操や劉備、孫堅父子に信服して付いていく、と言う方が少数派なんだと思いますね。

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田豫が劉備の元を離れたのは陶謙の元で豫州刺史になった頃で、南陽太守になったのは侯音の乱の前後なんで関羽が死んだ頃です 徐庶は実在の人物なんでモデルはいませんよ 田豫も徐庶も母親の為に劉備の元を去ると言う共通点はありますけどね

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質問者2021/5/28 9:37

関羽が死んだ頃ですか。関羽がもっと侵攻していたら、どうなっていたでしょうね。 徐庶の母のエピソードのモデルかもしれない、という意味でした。母を理由に劉備と別れて最後は 魏に仕えた、という点も同じですので。説明不足ですみません。徐庶の母のエピソードは、劉邦の部下の王陵がモデルかも知れませんが。

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正確な年は記載されていないものの、前後の文脈からだいたいの推測はつけられます。徐庶の在籍期間と、田豫の南陽太守就任期間はかぶっていないと断言できます。 田豫の就任前に侯音が反乱を起こしおり、これが219年。彼は戦後処理を担当しているので、関羽敗死後に南陽に就任したのでしょう。田豫の南陽統治を曹操が賞賛しているため、少なくとも曹操存命中の220年以前になります。 そして曹丕時代初期に持節・護烏丸校尉に就任。北方の鮮卑族対策担当に。 よって彼が南陽にいたのは219or220年~220or221年ぐらいのおよそ1年程度ということになります。 徐庶よりはだいぶ後の時代ですので、田豫が徐庶のモデルというのはありえませんし、徐庶は史実でも存在する人物で、劉備に諸葛亮を紹介していますよ。母が曹操軍につかまって劉備の元を去るのも史実通り。 フィクションなのは、彼が参謀として曹仁を破った戦いぐらいかな。

侯音の反乱当時の南陽太守は東里袞ですね。 彼は侯音の残党を厳しく処罰する方針でした。 しかしもともと、侯音の反乱は東里袞の厳しい統治への反発が原因であり、東里袞の方針ではさらなる反乱を招く可能性がありました。 この処罰を緩め、懐柔策を進めたのが田豫ですね。この政策は見事に成功し、騒乱の鎮静化に成功します。

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公式な史料が残っておらず、判明しておりません。 三国志の史料は正史でさえも、歴史の研究者からは「正確性に欠ける部分が数多見受けられる」と言われております。 残念ながら、推測するしかないように思われます。

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