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2021/6/10 21:00

22回答

徳川秀忠には

日本史58閲覧xmlns="http://www.w3.org/2000/svg">25

ベストアンサー

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2021/6/13 0:32

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2021/6/13 0:33

なお、江が長らく京に留まり、方や秀忠は江戸に居たため、子を儲けるのは難しいのでは、というのも、絶対に無理とは言い切れないので、否定しきれるものではないかと 初姫がすぐに京極家に嫁がされたのは、やがて正妻となる娘を早い内から婚家にて育てるというのは、前田利家四女・豪姫にも、産まれてすぐ秀吉夫妻の養子になったという説があり、初姫が誕生したのは江戸または伏見だそうですが、婚家の京極家は若狭の大名なので、伏見で生まれたならば、距離が近く、尚更早くに嫁がせたのではと思います 質問者様の仰る通り、庶子である長丸は秀忠の幼名を継いでいますが、家康・秀忠に共通する幼名である竹千代の名は与えず、庶子故とされています ならば、家光は竹千代の幼名を継いでいるので、同じ嫡男でも正室の子であったからなのではないかと考えます

ThanksImg質問者からのお礼コメント

大変詳しくありがとうございました!

お礼日時:6/14 20:19

その他の回答(1件)

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出版されている徳川の系譜にも、生年月日の疑わしいもの数名を上げ、御台の児ではないとハッキリ書かれているのが長丸君で、ほかにこの男子と出生時が合わない勝姫、初姫にも疑問を呈しています。 皇室に嫁いだ末娘の和子も兄の忠長と出生年月日が近すぎますのでやはり異母の可能性があります。 御台が出産したことがわかるのは千姫と、にわかな早産であることが旗本の記録にある将軍の家光だけです。 忠長は可愛がられたという割にはぐずぐずしていて母親の死に目にも間に合わず行動が不審です。ただの養子かもしれません。