仏教の方へ、自己の信仰の対象について。

補足

すべては無で求めるものは無の自分が仏教の真髄と思ってはいませんが、自分は無になって信仰を持ち生きていこうとする仏教徒の方に質問しています。

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ベストアンサー

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>自然法則としてのニュートラルな苦はシステムとしてあるので深遠で見難い 仰るその苦が仏教の最高難易度の苦であるなら、俗な一般凡人には仏教とはあまりに難易度が高すぎる超高度な宗教となってしまって残念です。 生きている目の前の苦から自分や人を救うのが宗教だと思ったのですが。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

これぞ日本人の「無」の感性ですね。 仏教が、お国柄や人間の感性のご都合で多様に変化しているわけがわかりました。 自分が不思議だったことがなるほどーと合点させてもらったこちらのご回答をBAとさせていただきます。 回答者の皆さま、ありがとうございました。

お礼日時:6/18 16:46

その他の回答(8件)

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仏教は、本来的には、信仰の対象となるものはありません。お釈迦さまが説いたのは、「悟り」であり、それをいかにして得るかということだけです。後の世の者達が、阿弥陀如来などの信仰の対象を作り上げたのです。 少し、「無」について。 悟りとは、本当の「自分」を知ることと言えます。 身体、顔、心、名前等は、「自分」そのものではありません。これらは、「自分」の身体、「自分」の顔、「自分」の心、「自分」の名前と言えるからです。 「自分」の服と言うとき、「自分」と服は別々の存在です。同じことはこれらにも言えることです。 では、この「自分」とは何でしょうか。どこにいるのでしょうか。 悟りを開くと、この「自分」は、時間も形もなく、ただ「いる」としか言えない存在であることが分かるのです。それは人の脳の認識能力を超えていて、言葉に表せません。それを「無」と表現しているのです。 仏教が他の宗教と違う点は、人の脳が作り上げたイデオロギー(信念体系)を超えた世界に到達しようとすることです。そこには涅槃寂静の世界があります。

>悟りを開くと、この「自分」は、時間も形もなく、ただ「いる」としか言えない存在であることが分かるのです。それは人の脳の認識能力を超えていて、言葉に表せません。それを「無」と表現しているのです。 こちらの言葉ストンと入りました。 私もことばにすると無と表現しているだけだと思います。 仏教についてひとつの解釈をありがとうございます。

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● 自分は無になって信仰を持ち生きていこうとする仏教徒 はい、私のことですかね。 >その瞑想やその他の修行も人が自己の苦悩から楽になるためのhow-toになりませんか。 その通りですね。 私の場合、〈無我〉を信じていまして、私の他に何か別のものや神が存在するわけではなく、一つの大きな〈宇宙という生命体〉の一部として生存しているんだろうと考えることがあります。 これは言葉に表現しにくい世界なのですが、とてつもないsomething greatは感じますね。 目に見えない宇宙法則に導かれて、人類は個々の生命活動をしているのだと思います。 私は無我であり宇宙の一部なのだから、宇宙は〈私そのもの〉であるとも言えるわけです。 長くなりますのでまたの機会に。

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>人が自己の苦悩から楽になるためのhow-toになりませんか。 全くその通りだと思います。 how-toというより、理論体型だったり、法則です。 そこには「信じて」得られる要素はないか、限りなく薄いです。 この「法則・理論」を仏教徒は尊いもの、として信仰しています。 仏教では、全てが「無常」と説きます。一切は「空」です。 人が生きるのは「苦」です。 この法則を「拝んで」いるのではなく、 腹の底から理解する、「悟る」のが仏教のhow-toです。 このhow-toで長けている、達成した人がお釈迦さんや、如来や菩薩などの「人」です。仏像とは本来、how-to達成者の銅像、って事です。 くだいていうと、 質問者様の「信仰」とは、拝むべき他者(もしくは「真実の自己」のような、いま自分だと認識しているものとは違うのも)に手を合わせる、拝む、 のをそう仰っているのだと推察しますが、 そんなもんは、ない、勝手に心が作ったまやかし妄想で、そういう永遠の善を体現するような意識体は、仏法によれば存在し得ない、仏法を自己実現し、自分こそ頼れるよう、成長した人になろう、というのが仏教の本来オリジナル、根幹かと存じます。

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>対象なんてなく向かうのは無で信仰しているとか帰依していると言われる方の信仰心は、なにに向かってなにに帰依しているのですか? ブッダは経典の中で何回も「信仰を捨てよ」と言っています。 さて、「向かうのは無」ではありません。 解脱であり涅槃です。 無我というのは、魂や霊魂のようなコア(核)となるようなものはない、 縁起による現象だ、ということです。 無になるのではなく無我と気づくことです。

言葉選びが適切でなくすみません。 一定の仏教の人が仰る無我なんですが、その、無我に気づくのも自己ですよね。この自己がこの世を生きていかなければならない、、たとえ妄想の自己や世としても。 真の自己を立脚せずして人のために生きてゆけるのか人の為どころか生きることも出来るのか?と疑問をもちました。 仏教学者の説も学者によって色々ありますよね…。

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私はごく普通の仏教の檀家の者です。キリスト教やイスラム教、日本では天理教あたりになるのかな、唯一誠の神を信じています。それだけでは駄目です。日本に神仏習合と言う言葉があるように多神教の神々も大切です。神様の居られる場所は太陽の後ろです。よく天と言うと頭上の高い所のような表現をしますが、それでは矛盾しますよね。それぞれの国に頭上があるのだから。太陽の後ろだと常に神→太陽→地球と常に一直線に並びます。その位地関係で地球や人類を見て居られます。ご周知のように日本は神道が発生し仏教が伝わり今日に至っています。日本国が自然にそのようになって行ったのは神様の思し召しだと思います。私がこのような考えてを大切にするのは日本の国に生まれた日本人だからです。こんな考え方が持てるのも昔神仏に関する驚愕するような体験をしたからです。