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仏教について質問です。 仏教の無我って意味が分かりません。 諸法無我(?)も 無我っていうと自分以外の認識器官、例えば

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2021/7/21 22:04

宗教で言う我(アートマン)は日常で使う言葉の意味とは全く違います。 簡単に説明すので映画館を想定してください。 映画を観ているのが我でありアートマン。 映画の中の世界が五蘊であり宇宙でありこの世界も含まれます。 これが解らないと宗教は理解できないと思います。 映画の中にいる私(自我)と映画を観ている私(自己・アートマン)では意識のジャンプが大きいので多くの人は理解できていないと思います。 サーンキヤ哲学にプルシャ、プラクリティーという言葉があります。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE プルシャが映画を観ている自己(アートマン)にあたりプラクリティー(自性・根本原質)は映写機みたいなもの。 プラクリティーから大・覚が出てきていますがこれが大乗の阿羅耶識にあたり五蘊の識にあたります。 大乗は中論で自性(プラクリティー)が無いことが空だと定義していて映画の中から出ていないので無我になります。 補足として アビダルマの考え方に五位七十五法というものがあります。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BD%8D (2)無為法 (むいほう、梵: asaṃskṛta dharma、アサンスクリタ・ダルマ)(3) 虚空(梵: ākāśa、アーカーシャ) - 物の存在する場所としての空間 択滅(梵: pratisaṃkhyānirodha、プラティサンキヤーニローダ) - 正しい知恵による煩悩の止滅[50]。苦集滅道の四諦のうち「滅」のこと[51]。また、涅槃のこと[52]。「択」とは法に対して正しい弁別判断をなす洞察力のこと 非択滅(梵: apratisaṅkhyānirodha、アプラティサンキヤーニローダ) - 正しい知恵によらない法の止滅[50]。二心の併起を認めない(下記節「説一切有部における法、心の性質」を参照)ために考えられる特異なダルマ (2)無為法が五蘊を超えた法になり、有為法は五蘊の幻想を作り出す法になります。 虚空がプラクリティー。 択滅がプルシャ。 非択滅は正しい知恵によらない法の止滅が意味不明で間違い。 小乗の世界観ではプルシャ(自己)を悟ったら阿羅漢と呼びます。 ゴータマ(釈迦)の悟りは無明と言ってるのでまだ高い。 話がそれるのでこの話は割愛します。 宇宙意識は上空から地球を観ている感じですが何かを観ているので五蘊の識です。 プラクリティーは五蘊の識である宇宙意識から五蘊を超えた何もない階層に意識が入らないといけない。 映写機は例えで虚空の(物の存在する場所としての空間 )という上の説明が正しい。 瞑想なら何も無い世界を観ます。 それを踏まえた上で、仏教の無我ってどうゆう意味ですか? 大乗の世界観だと諸法は五蘊のことで五蘊の中に我が哲学的にも瞑想でも見つけられないので無我。 (無我という意識階層が存在しないのでさすがにそれは悟れない) 小乗の法は五蘊を超えるものも法。

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あなた自身の頭であれこれ考えるのではなく、仏典や仏教の本を読まれることをお勧めします。 仏教が難しいと言われる原因は「仏教用語がわからない」ことです。 特に仏教が中国に渡り漢訳された事が誤解を招く原因となっています。 なぜなら日本人には中途半端に漢字が分かるからです。 日本人の習った漢字の感覚で仏教用語を理解しようとすると違ったものになりがちです。 もう一つは、ブッダがバラモン教を否定した言葉を使う場合がある事です。 当然ブッダがいた世界はバラモン教真っ只中でしたので、それを土台として 否定したということを理解するべきです。 無我というのはバラモン教のアートマン(我、魂)の否定として使われた言葉(アナートマン)のことです。 バラモン教では各個に魂や霊魂的な(不滅の)ものが実在することになっています。 これは日本をはじめ、世界中で認識されやすい考え方です。 ブッダは縁起の上から、人間は五蘊で生じた仮である現象だとみました。 「現象」なのです。 刹那の因縁によって刹那に生滅しているということです。 蛍光灯が、実はものすごいスピードで点滅し、人はそれをみて光の継続と錯覚するのに似ています。 つまり、バラモン教のアートマンのような「確固とした不滅のものなどない」ことを無我と言っているのです。 「空」には(実体がない)という意味がありますが、もう一つ「からっぽ」という意味もあります。 それはアートマンのような核がないことを指しています。 「からっぽ」だから無我なのです。

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ここでいう「我」って、変わらない自我、ほんとの自分、ってことです。 そういう真の自我ってのはない、って云ってます。 瞑想して何か凄い境地に至ったりする、もしくは病気や苦しい事があって、 あるいは超楽しい事があって、その中でものを見る、ってと、 とり方が変わるんです。全く同じ事を見ても。人間は。 そして、どう取ったかは様々であれ、それを知識として容れた人は、その前と見方が変わります。 そういう成長をしている、5才の自分と、15才の自分と、25才、35才〜 75才の自分を見て、外から見ている人は「同じだね」と云うか?というと 違う、変化してる、って話です。 幼い、なにも知らない時のキャラと、ボケて忘れたキャラが同じか、というと、違う。 過去の記憶を結びつけて自分と呼んでいるだけで、実際は身長が伸びて目線が変わってるのは自分だということ。成長して「服が小さくなった」という表現がありますが、まさに人間はそのように認識してしまうもので、実際は自分の状態が変わっている。変化によっては「人が変わった」ようになることもある 。良いことを思って過ごせばそのように体も心も変化するし、下ばかり向いて生きればそのように心も体もなるもの。そのように刻々変化する「自分」が 前と同じだ、とか、変わらないコアがある、とか仮定するよりは、いや外の影響でガンガン変わっていくもんでしょう、という事です。 >本当の無我というのは今後一切永遠に自我が無い のではなくて、ふつう人間、考えてしっかりしてないと、状況に合わせて調子に乗って、フラフラキャラが変わっちゃうよね、って事を云ってます。 しょーもない事で激怒してキレてみたり、しょーもないお世辞で有頂天になったり、関係ない、とおもったらガン無視で知らんぷり、 人間の心のほんとのとこって、そんなもんじゃ無いの? という事です。

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仏教でいう、『無我』の境地とは、己が欲望がない状態です。 我に意識は欲望に寄り、仏の意識は愛に寄っていますからです。 イエスの言葉で言うなら、 『己が悪を悔い改めて、互いに愛し合いなさい』、です。 人間の心には、許容範囲があり、まず、悪による欲望で埋まっています。 ですが、己が悪を悔い改める度毎に、善なる愛が注がれ、次第に、増え、遂には、己が心の内で、まるで、善と悪が逆転したかのように想える程にもなります。 この様な境地に至って欲しくて、『無我』と、言っているのです。

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諸法無我とは全てのものは自分の物では無い、我が肉体とて自分の物では無いという意味です。般若心経に「色即是空・空即是色」と書いてあります。「色」とは「目に見えるもの」であり、「空」は実体が無いという意味ですが「目に見えないもの」のことです。「色即是空」とは見えてはいる物質も見え無い物質でできている。「空即是色」は見えてはいないが見える物質であるという意味です。 水や氷や雲は「色」であるが水蒸気のように見えなくなれば「空」となる。物質や体のように目に見えているものが「色」であり、物が原子や分子にまで分解されて見えなくなれば「空」になる。植物や動物が食べられ消化されても消滅したのではなく食べた動物の体の中で形を変えて存在し続けている。原子や分子にまで分解され実体が無くなったことを「空」と言うのです。この世界はすべて色と空でできており、物質は色と空を行き来し姿かたちを変えて変化しているだけなのです。それを新たに生じることも無ければ消滅することもない、増えたり減ったりすることもない「不生不滅」「不増不減」であると書いてあります。 「照見五蘊皆空」と書いてありますが「五蘊」とは心と体のことです。よくよく見れば心も体も空であるという意味です。空であるということは消えて無くなることなく永遠に存在し続けるということになります。それらはすべて縁によって集まり生じ、また空に帰す。縁によって集まっているだけなので自分の体とて自分の物に非ずということです。