人はなぜ宗教(信仰)が必要なのでしょうか? 自転車でお遍路を参り、結願しました。しかし、以前と大して生活に変化がありません。

補足

すでに功徳は十分過ぎほど貰っていたのに、見えていませんでした。 まったく恥ずかしい質問をしたものです。 反省します。そして、ご回答ありがとうございます。

宗教 | 超常現象、オカルト288閲覧xmlns="http://www.w3.org/2000/svg">50

ベストアンサー

2

2人がナイス!しています

なるほど。今は見えない、わからないかもしれないけど これからの人生を歩むうえでプラスとなることがあるかもしれない。 お接待を受けたことで、自分も人に優しくなれる。 確かにサイクリング気分で周っていましたが、いろいろな経験・知見を得て人生が楽になりました。 すでに功徳はいただいておりました。 ありがとうございます。

その他の回答(21件)

1

私はあなたのように、辛く長い熾烈な修行はしたことはありませんが、毎年の大晦日に、都内の大きな神仏に対して一人で、お金を持たず、徒歩と僅かな食べ物と飲み物を持って、徒歩で丸1日を使ってお参りに出かけています。2021年で4度目を迎えることになるでしょう。 始めた5年前は、信仰とは祈りだと私は思っていましたが、今はそうではないと断言できます。5年前以前の私は、とても長い苦しみと悩みで心が一杯で、どうやって幸福を手に入れるかばかりを考えていました。 しかし、この”旅”を毎年の決まりにしてから以降、自分以外のこの世のすべてを目にするにあたって、生きるとはなんだろう、なぜ生き延びならないとダメなのだろうと、その問の答えを探すものになっています。 そして、これが信仰の意味であり、私はこの答えを知り得ました。 信仰とは、信心とは自分の外にはありません。未知の世界で最も人類が到達できない世界こそが、精神、心の世界です。景色、出会い、会社、学校、全てにおいて、そこら中に存在するのに、人にはわからない。 そんな人間に、仏閣や神社で神仏に対し、何を問い、何を得られると思いますでしょうか?人の心さえ読めない人間が、神仏の言葉を理解できるはずなど、私はあり得ないと思います。 私個人の旅で見たものは、人々の祈りばかりです。神を見たわけでも、仏様と話ができる人でもありません。 あなたは、きっとお遍路で、何かの願いをかけて祈ったはずです。でもそれが実現できてないかもしれない、意味がないのかも?と疑っています。それは当たり前の話で、あなたの願いはあなたでしか実現できないからです。 死への恐れ、将来の不安、健康とか、人には未来を幸福なものにしようと思いがちです。しかし、「生きる」とはそうではありません。 私は毎年、神仏に感謝はいたしません。すでに、今年も参拝できているのですから、これは神仏の賜であると、それまで私は日々思うことは当然だったからです。しかし、毎年、何かしら私でも失うものがあります。 職だったり、お金だったり、希望や夢だったりと色々ですが、そうして失っても参拝しているのは、これは神仏の御加護によるものだと思うからですね。つまり、私が得ようとし、また失うことを最も恐れた数々の事は、『生きる意味ではさして大切なことではない』と、教えられたのです。 失うことを恐れ、幸福だけを願う・・・・実に傲慢です。 幸福となるのなら、全てを賭けてもそれに対し、従うべきというのなら、私が失業したのも、またお金を失ったのも、希望や夢を持てなくなったことで、何か非常に大切なものを手にしたことになっているのです。 あなたは、お遍路で仏様の心、仏心に出会えましたか?お遍路の道中には、様々な仏様が待っておられます。しかし大半の巡礼者は、自分で勝手に神仏に願いを申すだけです。神仏の心に触れません。 それは神仏を信じていない証拠です。 ”私は善き事ばかりだった。多くを失ったのは幸いだった。今こうしてあなた様の前に来られる。私が職を続けており、もし裕福ならきっと、あなた様の前で、私は私の心を開いて見せることが出来る。”これが、神仏との心の会話です。生かされていると知り、その御心によって、導かれ、こうして生きていけると思うことが仏心なのです。 天災にあい、あるいは不幸と思える事に苛まれ、どんなに惨めであっても、人は生きようと思うことが出来る何かがあります。 仮に、今置かれているあなたの家族やあなたの生活が、全て自分の能力だけで、偶然も奇跡も絶対に無いと断言できるのなら、それを守ろうと自分一人の力と知恵で乗り切れるでしょう。 しかし、私はこの世には信じられない奇跡と偶然に満ちており、そのどれもが自分の想像を超え、そしてその中で自分は人として生きていると思うから、いつでも心を開き、自分に問いかけ、『これは何の御業なのだろう』と思います。 そして毎年の年末の晩に『これまでの人智を超えた御業こそ、恐らくあなた様であろうと思いますが、今年もどうぞよろしくお願いいたします。』と申し上げるのです。つまり、私は身を委ねているのですね。 すべてを知りえる御業があるのなら、神仏ならすでに私の心も見通しているはずので。私の思ってることなんて容易いことでしょう。

1人がナイス!しています

1

日本仏教は、元々は衆生の救済のために布教されたものですので、例えば疫病が流行った時は大仏を建立して衆生を救おうとしたり、戦国時代には、南無阿弥陀仏を唱えれば死後救済されるという教義の浄土真宗(一向宗)が流行ったりという歴史があります。 当時は今ほど医学も発達しておらず、戦も頻繁に起こったりと、いつ死ぬか分からないような世の中だったから宗教が重要視されており、科学や医学が発展した現代では、そういった苦悩や苦しみがあまり無くなったから、仏教の信仰自体が希薄なものになっています。 話を戻すと、質問者様が求める功徳=現世利益という考えではないでしょうか? 現世利益というのは欲、つまり煩悩ですので、信仰と現世利益と結びつけるのは違うと思います。 途中で出会った熱心に祈っている方というのは、本来の意義通りに、例えば自身か身内に難病を患っており、救いを求めていたり、亡くなった身内の死後救済を願っていたりしていたのかと思います。 最後に、仏教の教えで、「知恩」「感恩」「報恩」というものがあります。 簡単に言えば、 知恩=恩を受けていることを知る 感恩=受けている恩に感謝する 報恩=受けている恩に報いる 日々いろんな人から受けている恩をしり、感謝できるようになったのであれば、それは大きな収穫だと思いますよ。

1人がナイス!しています

0

信仰は宗教に限りません。 ニュートラルを自認する自分は、果たして本当になんの影響も受けていない正しいものの見方が出来ているのだろうか? と常に自分を疑えなければ、対立は避けられませんよね。 理解出来ない思想は排除するべきか、共存するべきなのか? どちらにしても、受け入れられないその思想について学ばなければ、相手の立場での思考は理解出来ません。 批判はその先にあるべきですよね。

不適切な内容が含まれている可能性があるため、非表示になっています。

0

感謝できたのならそれだけで十分だろ。 だいたいね、四国巡礼で見返りを求めるなど言語道断。あなたには功徳ではなく天罰が下されるべきです。

0

科学というのは、事実を正確に把握し、現実のありようを上手く説明するための、単なる方法論に過ぎないっす。 科学技術や知識は目先の生活を便利にしますが、それが良い人生を歩むための道標になるワケではないっす。 例えば、鬱病発症の仕組みを科学的に説明されたって、その説明で鬱な気分がおさまるわけではないし、 恋した時の脳内ホルモン分泌を勉強しても、それで恋が実るワケではないっす。(笑) ヒトが良く生きるためには、自分の判断や行動に適切な方向性を与え、導くための良い思想が必要なのです。 その思想がナチズムやスピリやカルトであると、ヒトは道を踏み外してしまう。 伝統宗教は決して科学的ではありませんが、今までコレで沢山の方がコレを信じて上手く生きてこられた実績があるからこそ、今も一定の市民権を持って受け入れられているのです。(笑) ヒトは真理を知らなくても生きていけますが、生きるというコトを実践する上で必要なものは色々あるのです。(笑)