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2021/7/25 19:35

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徳川家康は、豊臣家を根絶やしにして政権を奪いましたが、罪悪感は無かったと思いますか?

日本史127閲覧

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imgmさんから反論をいただいたので補足です。  まずimgmさんがsnsで「いい加減林羅山は図書館長程度だと知ってほしい」みたいなことを仰っているのは、家康時代の羅山は書物係くらいの立場だったという揖斐高氏の説を踏まえてのことだと思いますが、上記の問答は揖斐氏も触れていて秀頼問題とは不可分のものとして記述されているので、羅山の待遇と問答の有無は分けて考える必要があります。書物係だから問答はなかったとは揖斐氏は述べていないのです。私も弟子たちが盛っていった部分はあると思いますが、問答自体がなかったとまでは考えていません。藤原惺窩にも同年9月ごろに武王の紂王討ちについて尋ねたとの逸話もあり家康の関心が窺えますし、江戸時代の儒者や問答を検討したほかの研究者も問答と秀頼問題に重ねています。全くの創作だとか本を読み聞かせただけとするなら先行研究を否定する具体的な根拠を示さねばならないでしょう。

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豊臣だって主家だった織田から政権奪ったんだから同じことしただけでしょ。 豊臣家臣だって一枚岩ではなかったし、天下泰平のためには徳川政権樹立は必要悪だったと。

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家康は大坂の陣後に政権を奪ったわけではありません 関ケ原前の慶長4年8月に朝廷は家康を生前の秀吉と同じ扱い=天下人と認定していますし、関ケ原後の再編成で家康は天下人として諸大名と御恩と奉公=主従の関係を結んでいますから 豊臣家を根絶やしにして政権を奪っていませんし、関ケ原後自家家臣団で領地運営も出来ない体たらくの豊臣家に対して徳川家臣団を配置し年貢の面倒や秀頼の教育の斡旋までしているので(その後秀頼が嫌がり教育は出来ずに終わる)豊臣家を何とか大名家として成り立つようにしています 罪悪感を抱くような事をしていません

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林羅山との問答は羅山の弟子による創作です 慶長17年には家康と2度体面していますが、どちらも献上された本の読み上げだけです つまり秀頼を討つ為というものがないのです そして夏の陣直前まで秀頼を滅ぼすつもりもありません

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先ずは何故、豊臣家が滅亡への道を歩まなければいけなかったのかを考えるなら関ヶ原の戦いで禄を失った者達が秀頼をかつぎ上げ再び大名に戻る。もうひとつはキリシタン信者等がそれに繋がり一揆を起こす可能性があるとみたから。そこに方広寺鐘銘事件が勃発。豊臣方の強硬派は片桐且元を追放した。こうなれば嫌がおうでも滅亡させるを得なかったと思います。

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徳川家康の戦略には、豊臣の子飼い大名の取り込み無くして天下はとれないという欠陥が有りました。 背後に蒲生氏郷が控えていたので家康は身動きが取れない布陣だったのです。 朝鮮出兵が家康にチャンスを与えました。 氏郷が死に、豊臣家臣団に亀裂が入りました。 天運が家康に味方したので政権を奪えました。 運も実力の内と思って居たと思います。

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罪悪感があったからこそ、秀頼と離れ離れにさせられた 「秀頼の妻で孫娘」である「千姫の願い」は何でも聞き入れました。 千姫が惚れたのが、家康の家臣であった時も、 本来なら自分の家臣に孫娘が嫁ぐなど、あり得ない事でしたが、 家康はしぶしぶ許し「莫大な婚礼祝い金」を与え、 それが元となって「国宝・姫路城」が誕生しました(^^)

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