自業自得は、仏陀の教えにとって二次的(副次的)なもの、二次解釈にすぎませんか? 以前に、自業自得について以下のような回答をいただきました。

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ベストアンサー

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

みなさん、回答ありがとうございます。

お礼日時:8/2 7:20

その他の回答(8件)

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仏教とは「ブッダの教え」が伝承されたものであり、伝承が形になったのが仏典、すなわち経・律・論の三蔵です。 残念ながらブッダの肉声を伝える映像や音声が残っているわけではありませんので、仏教に関するあらゆる情報はこれら三蔵を元にしています。 ラメッシ・バルセカールだろうと誰だろうと、三蔵を元にせずにブッダについて語れる人はいないのです。 従って「仏陀の教えの核心」が本当に知りたいのであれば、自ら三蔵を学ぶのが最適の方法であり、唯一の方法です。これは信仰とは無関係の論理的必然です。 実際のところ、知恵袋で仏教について回答する人の多くは三蔵を読んでおらず、質問者さんと同様に仏教に関する断片的な言葉を元に勝手な仏教のイメージを築いているだけです。 そうした回答をいくら集めても無意味ですし、果たしてそれらが本当に仏教を正しく伝えるものなのかどうかは、やはり自分で三蔵を学んでいないと判断することはできません。 三蔵の参照なしには、他者が断片的なイメージを元に捏造した仏教イメージを、自分の好みを頼りに取捨するという以上のことは不可能だということです。 先入観を持たずに三蔵を学べば、自業自得として知られる業=kammaというものが、仏教の教えの強固な基礎となっていることは誰にでも明らかにわかると思います。 仏典は現代日本語で翻訳され普通に販売されています。 真面目に仏教を学びたいと考える人は当たり前に読んでいるものですので、質問者さんも一度仏典の読解に取り組まれることをお勧めします。

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人間、我が身に起こったことしか真剣に考えられません。自業自得は仏法に入るきっかけになると同時に解脱の原動力にもなります。

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二次解釈の意味がよくわからないのですが、「業」とは行為と言う意味です。自業自得は自分で行ったことは自分に返ってくるという意味で、因果応報と同じ意味になります。因果応報とは現在または未来に起きる結果には必ず過去又は現在に、その原因となるものを自らが創っているという意味であり、因とは原因のことで果とは結果のことです。応報とは原因に応じた報い(結果)の意味です。 現在の幸不幸や偶然と見えるような出来事も、その原因が前世にあると説くのが仏教です。

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自業自得の教えを善悪と結びつけると、矛盾が生じます。 仏教の縁起の教えには、もともと世俗的な善悪はありません。 親鸞聖人は、悪人ほど成仏すると言っています。 これなどはその良い例でしょう。

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理屈では間違ってはいませんが その「真理」とやらは 哲学的な思索に耽るときにだけ頭をもたげる観念に過ぎず、 生きる上では事実上どうでも良いものです。 仏教は苦から逃れる実践の方法論が核心であって その「真理」とやらこそ二の次です。

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