宗教を信仰するのは勇気が必要でしょうか?

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日本人なら大和魂が必要です。 大和魂は三種の神器で表されます。 鏡が誠、玉が愛、剣が勇気です。 誠、愛、勇の精神を持たないとね。 日の丸の白地が誠、丸が愛、赤色が勇です。 オリンピックで日の丸が上がると嬉しいでしょう。誠、愛、勇の表現なのです。 ガッツポーズあれは日本人の精神ではありません。相手をやっつけて嬉しい、なんてガキの仕業です。

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全ての宗教の信者がみんな、「この信仰によって、 わたしは幸福になりました、わたしは善人になりました、 わたしは希望を持つようになりました、 わたしは勇気を持つようになりました、 わたしは生き甲斐を持つようになりました」、、、と それぞれに救済感動の証しをしています。 ――――― 人間の救いを提唱するのは宗教だけです。 「あなたも幸福になれます」 「あなたも救われます」 と語りかけて来ます。 宗教を信仰するとは、知識の領域において、 実際には自分の知識の届かない領域に関する事柄 (死後の世界、魂、天国、極楽、地獄、霊界、前世、来世、天使・悪魔、 神、霊、、、のような事柄) について、 自分の救いを得るために、 「これが真実である」と確信しなければならないものなのです。 人が信仰する理由は、その人が欲しいと思っている 当のものを、その宗教が与えているからです。 何らかの益(恩恵)、 「幸福になる」「地獄に落ちないで天国に行く」「罪がゆるされる」「善人になる」「人生の目的や意味が与えられる」「病気が治る」「良い人生をおくれる」「人生をより良く生きれる」「人生訓・生き方の指針を与えてくれる」「満足な生涯を見出すことができる」「生きている意味や、生涯の目的を与えてくれる」「自主独立できるようになる」「人生を一人でやり遂げることが出来る」「隣人愛を実践できるようになる」「挑戦や革新的な実践を出来るようになる」「自己の能力を最大活用する生き方が出来る」「自己の判断や実践が出来るようになる」「独立精神をもって人生をめげずに頑張れる」「辛い思いに我慢して耐える事が出来それらも歓びと受け入れられる」 ・・・etcは、 宗教団体が信者を獲得するためのエサとして、 人々の眼の前にぶら下げるものです。 上記のようなものが欲しい人は 上記のような餌を目の前にぶら下げられると食らいつきます。 上記のような「何らかの益(恩恵)」をもらえるかどうかを 優先する人々は、この餌に食らいつきます。 このようなことを、信者は 「幸福」「救い」「神からの恵み・祝福・愛」などと 呼んでいるのです。 上記のような「益(恩恵)」が本当に実現するためには、 その宗教の教えは本物でなければなりません。 そうでなければ、儀式は、単なるマヤカシに 単なる茶番劇になってしまいます。 そうでなければ、約束された美味しい「益(恩恵)」を 受け取ることはできません。 つまり、上記にあげたようなイイものが貰えるためには、 その宗教は、どうしても本物であってもらわなければ困るのです。 「○○は全て真理である」という主張は、 その宗教の一つ一つの主張が真実であるかどうか吟味した結果 発表された主張ではなく、自己の救いがその宗教に依存している という信仰から、真偽の吟味をすることなく、生まれた主張なのです。 信者は、その宗教の教えが本当かどうかを調べて、その後、 本当に違いないとわかって、そうして、本当であると 判断したのではありません。 そうではなく、その宗教だと自分の「益(恩恵)」に甚だ都合がよいので、 本当かどうかわからないのに、本物である、と受け入れてしまったのです。 自己の救いがそこに依存しているわけだから、 その宗教に誤謬があることなど、 はじめから受け入れられないのです。 自己の救いをより大きな価値とする人がいる限り、 いかにその矛盾が指摘されようと、また 「非科学的」と非難されようと、 宗教は繁盛するに違いありません。 同様に、どんなに胡散臭くても荒唐無稽でも、 救いや幸福を探し求めている人々がいる限り、 これからも、宗教という「救いや幸福を売る商売」は 繁盛するに違いありません。