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無記とは死後が無いではなく。有るでもない。説かないでもなく。説くでもない。た...

jyugaku2008さん

2009/4/320:19:26

無記とは死後が無いではなく。有るでもない。説かないでもなく。説くでもない。ただ記すことが無いこと。無記で救われる人がいる。また無記で救われない人もいる。無記は無記です。

お釈迦様が無記を示した気持ちをどう思いますか?


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(佐倉哲エッセイ集より)
「十難無記」
(一)世界は常住である。
(二)世界は無常である。(時間的に限定されていないか、いるか)
(三)世界は有辺である。
(四)世界は無辺である。(空間的に限定されているか、いないか)
(五)身体と霊魂とは一つである。
(六)身体と霊魂とは別である。
(七)人格的完成者(如来)は死後に生存する。
(八)生存しない。
(九)生存し且つ生存しない。
(十)生存しないし且つ生存しないのでもない。(P46)

「十四難無記」

(一)と(二)のあとに、世界は(十一)・常住且つ無常、(十二)・常住でもなく無常でもない。

(三)と(四)のあとに、世界は(十三)・有辺且つ無辺、(十四)・有辺でもなく無辺でもない。

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ベストアンサーに選ばれた回答

編集あり2009/4/802:55:26

無記については石飛道子さんの『マジカナ道場』でヒートアップしています。(09/03/24-22:22 No.5555)
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbsnew/wforum.cgi

無記を知る上では最古層の釈尊の直説である『スッタニパータ』が手がかりになると思います。

仏法というのは実践哲学ですから。我という想いをいかに止滅させるかが原始仏教徒の最大のテーマであったわけです。お釈迦さまは『スッタニパータ』の中では、第一段階の清浄行として煩悩からの解脱をマールンキヤプッタに教えています。そして、第二段階の清浄行として、「無所有処定」などの禅定修行によろ「想いからの解脱」を教えて、「名称と色形(名色)を離れること」、涅槃に導いています。

この「想いからの解脱」とは何かについて。『スッタニパータ』874では、「色形を滅する」=涅槃の原因は「多様な言語世界(パパンチャ)の名称が起こらないこと」であると断言されています。

「多様な言語世界(パパンチャ)の名称が起こる」、すなわち言葉が生み出されるということは、すべてのものを分別して認識することになりますね。そこから(あなたではない、あなたと区別された)わたしという想いが生まれ、わたしのものという想いが生まれます。それが貪欲、煩悩の根源ですね。ゆえに、「多様な言語世界の名称」を生む心の働きを止滅させれば解脱できることになります。

別の箇所では「識別作用の止滅」(1037)に弟子たちを導いています。わずかでもなんらかの対象を対象として捉えるところ無明や妄執が生まれることを、お釈迦さまは見抜いているのです。

有無というのは、「~がある」、「~がない」ということですから、第二の清浄行である「想いからの解脱」を遂げた修行者にとっては、「世界は常住である」、「世界は常住でない」等の問いは、全く意味を成さないことになります。涅槃のための「多様な言語世界の名称」が縁って起こるところのこころの微細な活動の止滅と、そこに執着し、戯論に耽る行いは、相反することになります。

龍樹の解脱も「多様な言語世界(パパンチャ)の名称の止滅」であったのですが、大乗仏教の論書にことさら『スッタニパータ』からの引用が多いのか、わかるような気もします。『スッタニパータ』は龍樹の『中論』の拠り所だったわけですから、大乗仏教の拠り所ともいえるかと思います。

「行為と煩悩が滅するから、解脱がある。行為と煩悩は、思慮分別によって起こる。これらは、多様な想い(プラパンチャ)にしたがってあるが、多様な言語・表象世界(プラパンチャ)は空性(シューニャター)の中に滅するのである。」(『中論』18.5)

お釈迦様は『ウダーナ・ヴァルガ』に自らの涅槃の境地を「そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空もなく、識別作用もなく、太陽も存在せず、月も存在しない。水も無く、地もなく、火も風も侵入しないところ―そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。」と説き、
龍樹は、『中論』で、「心の行為領域がすでに止滅しているのであるから、言い表されるべきものが、すでに止滅している。なんとなれば、あたかも涅槃のように生じておらず滅していないものが法性(万物の真のすがた)であるから。」と。

一切の相の止滅=一切の言い表されるべきものの止滅=多様な言語世界の名称の止滅は、同じ涅槃に到達するのですね。

戯論への耽溺は、四諦の滅道の法門にも背くことになります。
http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/malunkya.html

弟子達には、「多様な言語世界の名称の止滅」に導くための十無記であったのです。有無の二道に捉われない八不中道の境地こそが、弟子たちの道なのです。「多様な言語世界の名称の止滅」=解脱がどうしてもできず、自殺をしようとした尼僧もいたくらいですから、ほとんどの出家修行者には、全く興味のない問題であったろうと思います。

外教徒に対しては、石飛道子さんも語っておられますが(No.5576)、仏教の無我を宣揚するためであったのです。このお釈迦様の態度により、弟子たちは外教徒と「多様な言語世界の名称」について討論することから守られ、岩窟や死体埋葬所(寒林)において、独りそれらを止滅させるための禅定修行に没頭することができたわけです。

八不中道(生死即涅槃)の教えと、その境地への禅定の道を、外教徒の攻撃から守るための十無記なのです。

輪廻転生の教えとは直接は関係はないでしょう。八不中道の境地を獲得すれば、必然的に自らの過去世をも覚知する三明の悟りを得ることになるのですから。

お釈迦さまの外教徒から仏法の八不中道の教えを守らんとする断固たる決意と、防波堤となって、弟子たちを正しく八不中道の境地へ導かんとする厳愛のお言葉ということにつきるかと思います。

質問した人からのコメント

2009/4/9 06:59:57

ご回答有難うございます。お釈迦様の時代は愚像崇拝・文字も否定したいたことは事実ですが、死後結集して教えを確認していました。その中で自然に必要になり出来たものと解釈しています。
bougainvillea1207さん回答は難しく理解しにくいですが、無記は議論したら限りが有りませんので人により返って悟りの妨げにもなります。大変に参考になりました。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

hakuseiunさん

2009/4/407:30:14

釈尊は「無記」とされたとは、怪訝で不可解な話しでしょうね。
なぜなら、釈尊は一文字・一巻の経巻も著しておられません。

教義は、師弟口伝・継承の叙情詩で語られている時代です。
口伝のないクシャトリアは、輪廻転生を考えるしかありません。

バラモン教の輪廻転生で、閉塞する思想に救われない釈尊。
数千年を通し、今もカ-スト社会を支え続ける根本理論です。

“生まれる前から、現世が決まり、来世の為に心を修養する”
何一つ実態のない虚構に惑わされる、無知への誘導ですね。

血湧き肉躍る現実の肉体、己で考え・納得して生きる人生。
「すべての現象は移りゆく、怠らず精進せよ。」が釈尊の遺言。

真理へは、此岸も・彼岸をも・捨て去り、独りで歩めと諭します。
これを勘案すると、実感できる事について扱う態度に見えます。

後世弟子達がこの実感を探求し、色即是空と記すに至ります。
旧来社会との融合で、釈尊から変質・離れた経過が明確です。

因縁からの因果応報とし、輪廻転生さえ教義に取り入れました。
釈尊の解脱は、「輪廻転生を否定する様に」諭したのですがね。

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