「仏陀」には悟りの最高位である仏の悟り、つまり真理に目覚めたものという意味があります。

宗教260閲覧

ベストアンサー

0

ThanksImg質問者からのお礼コメント

最終的に常・楽・我・浄(四徳)という真実の法を説くための準備段階として方便の諸行無常を説いたというところである程度納得できました。悟りがあまりにも深いだけに一般の人々は簡単には理解できませんからね。 それにしても皆さんよく勉強していらっしゃいます。すごい!

お礼日時:9/17 19:20

その他の回答(11件)

0

諸行無常というのは 「因(原因)と縁(条件)とによって形成されたものは無常(変化する)」 ということです。 言い方を変えるならば「因縁によって形成されないものは無常ではない」 ということです。 涅槃は無常ではありませんし、因縁によらない法も無常ではありません。

0

皆さん難しく考えすぎです。 何不自由のない王子の身分を捨てて出家した、お釈迦さまには大きな苦しみがあったのです。それは「人は何のために生きているのか、人生に意味はあるのか」という苦しみだったのです。一切はむなしいという思いです。それを「諸行無常」と呼んでいるのです。ですから、そのあとに「一切皆苦」と続くのです。 しかし、悟りを開くことによって、「諸法無我」ということが分かり、その境地が「涅槃寂静」となるわけです。

0

諸行無常… 「諸行」が無常なんです。 「諸行」とは、諸々の作られたもの…つまり有為法です。 うい‐ほう ウヰホフ【有為法】 https://kotobank.jp/word/有為法-438296#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 〘名〙 (「有為」はsaṃskṛta の訳語) 仏語。因縁によって生じ、そして滅するところの現象的存在。常住不変な固定的実体を有しないことから、有為は転変するという。また、因縁の故に生じ必ず結果を有するところから、有果という。有為の法。⇔無為法。 引用以上 有為法の逆は無為法です。 むい‐ほう ムヰホフ【無為法】 https://kotobank.jp/word/無為法-640772 〘名〙 仏語。生滅変化することのない、因縁によらないもの。解脱の境地、縁起の理法などにいう。無為の法。⇔有為法(ういほう) 引用以上 お釈迦様の覚った真理は無為法です。 だから常住です。

0

ID非公開

2021/9/17 15:05

矛盾があります。 その理由は「悟り」「諸行無常」の解釈の間違い故です。 現在は、釈尊の真の教え(仏道)と、大乗仏教の教えが混濁し矛盾や誤解、難解さが生じています。 現在の仏教は、釈尊没後500年後に生まれた大乗仏教を主としたもので「仏陀の教え」が後に「仏教」と言われるようになったものです。 肉体が我で、空・無で、すべて幻想であり、それを認識し、理解度により、悟りも段階があるとされています。 現在、目にする般若心経の解釈も、大乗仏教によるもので、「我は、不死を得たり」の「我」を肉体としたことが始まりです。 これ等は後世の仏典等の解釈の間違いで、口伝により、釈尊の本来の教えとは異なったものになっています。 大乗仏教を完成させたのは、釈尊の第十四代の後継者の龍樹で、本来は釈尊の教えを継承したものです。 この「我、不死」の真意は「霊=我」の事で、霊が、輪廻を解脱し、極楽天へ帰り、不老不死の永遠の生命を得られる故です。 釈尊の「悟り」は以下の様なものです。 参考になれば幸いです。 これは、「道理」による解釈です。 道理とは、あらゆる「真理」を網羅した「道」の教えで、五大教の教祖や聖人と言われる方々が最後に出会った道で、神代の時代から連綿と継承されてるものです。 「真理」とは、天理、地理、物理、性理、倫理等、時代や国が代わっても、絶対的に正しく、変わらない教えです。 「霊」は性理で解き、宗教(倫理)の中にはありません。 この事を釈尊は「諸法無我」と言っています。諸々の救いの為の教えの中には、我(霊)の教えは無いと言う意です。 また「諸行無常」とは、この霊の永遠性に対して「この世界に恒久的な物は無い」と言ったものです。 是は、恒久性が無い世界で、欲に奔走、執着し、酔いしれている事への戒めを説いた言葉です。 「悟り」は、人の本性である「霊」の救いです。 その救いとは、霊が故郷である彼岸、極楽天へ帰る事を言います。 私達には「心」があります。その正体が「霊」です。 「霊」は遥か昔、祖神から生まれた「神の子」で、修行の為に、極楽天より降されました。 しかし、形が無いため磨く事が出来ません。 その為、磨く道具として、肉体(仮体)が与えられました。 この天界そして地球は、人が生活出来るよう作られた修行の為の仮の世界です。 私達の肉体には「霊」の出入り口が五ヶ所あります。 出入りが出来る「正門=微妙の法門」が一つ、そして此処が閉まっている時の出口としての四ケ所(四門=眼耳鼻口)です。 「悟」の字の、「忄」は霊の事で、「吾」は、我、そして、五つ目の口の事です。 悟りとは、我が霊の在り場所を知る事です。 その場所より、肉体に宿り、生命を誕生させます。 しかし、その場所は直ぐに閉まります。 それは、その場所こそ、唯一、極楽天へ通じる正門だからです。 ここを再び開く事を「悟りを開く」と言います。 霊が宿りませんと死産となります。 そして、その霊が寿命を終えた肉体から抜け出すのを「死」と言います。 死を恐れるのは、霊は感覚を持ち、不滅で輪廻し、その行き先を知るからです。 肉体に感覚が有るのでありません。その証拠に死産の肉体には感覚はありません。 悟りを開けば「極楽往生」出来なけれは、奈落で霊の浄化に努めます。 「霊」が私達の生死を左右します。 この霊こそ、本当の自分、我(吾)です。 真の故郷、彼岸、極楽天へ帰る為に、人に宿り、正門を経て帰天します。 「人生」人が生まれ、生きる意義、目的は此処にあります。 しかし、人は肉体を自分(我)と誤解し別の生き方をしています。 その為、その戒めを説いたのが「般若心経」です。 釈尊の本来の教えは「仏道」と言います。 この「仏」とは、霊が肉体に宿ると「人間」、そして臨終後、肉体から抜けると「仏」又は「如来」と呼称を変えます。 霊は「神の子」で、神と仏の本質は同じです。一度肉体に宿れば、「仏」と呼ばれ、その行状を説かれたのが「仏道」です。 私達は皆、自らの肉体に「神の子=菩薩=仏」を宿しています。 悟りは「天機」で、そのものズバリを公言したり、書物に記すことが出来ません。これが「密教」と言われ所以です。 それ故、大仏開眼、神眼を開く、眼横鼻直、正法眼蔵と言われたり、大仏の額に「白毫」を印たり、ダルマに目を入れたりと謎表現をされます。 しかし、それを知るのは、迦葉尊者、アナン尊者等の正統な継承派で、現在も弥勒仏の下生により継承されています。 他は前の教えしか知りません。それ故、悟りは「肉体の救い」と推察し、それに合わせた経典等の解釈をします。 「悟り」は、三つの秘法からからなります。 迦葉尊者に授けられた時は、教外別伝「不立文字、以心伝心、微妙の法門」と言われています。 般若心経の中では「三藐三菩提=三つの小さな悟り」「是大神呪、是大明呪、是無上呪」このように言われています。 現在は末世で、宇宙規模の大災難を前に、ある程度、修行が出来た者へも悟りの道は開けています。 すでに、その前兆は世界規模で起きています。 ここ2、3年の大洪水、森林火災、台風の激しさがそうです。 その為、弥勒仏が下生され、衆生済度されています。 現代漢字の元は象形文字ですが、 これは、5000年前、黄帝の史官の倉吉によって、鳥の足跡をヒントに創られました。 黄帝は、鍼灸を考案し、人々に教えた方で、その功徳により、悟りを授けられています。 「ユンケル黄帝液」の黄帝とは、この方から取ったものです。 それ故、漢字には「悟り」を表す物や関連するものが数多くあります。 当時は、八卦を完成させた「伏羲」や神農本草経の「神農」も、その手柄により、悟りを得られています。 悟りは求める程離れて行きます、善行による前世からの積徳の先にあるのが悟りです。 「悟りの縁」は向こうからやって来ます。 良縁に出会われる事を祈念致します。 下記で釈尊の真の教えを知る事が出来ます。 (参考 悟りと般若心経 谷神一 著書)

0

無常であることに気が付けば、無常に捉われることが無くなる、つまりそれが問題ではなくなる。