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ひぐらしのなく頃に 卒 での質問です 結局ひぐらしのなく頃に 業 卒 はベルンカステルとラムダデルタのゲームだったということでよろしいのでしょうか?

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鬼騙し→鬼明しが露骨でしたね。 鬼騙し: 「私は知っている」「誰が古手梨花を殺すのかも」 鬼明し: 古手梨花は包丁で自刃 →「古手梨花を◯すのは「私」でした」ってオチは中々いい叙述トリックだったと思います。 「古手梨花」の中に入ってるって発想がうみねこ経験者じゃないと浮かばないのはマイナスですが…

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黒幕「ラムダデルタとベルンカステル」 方法「魔法による魔女幻想」 動機「退屈しのぎ」 勝敗「引き分け」 たったこれだけの話でした。「うみねこのなく頃に」に登場したレズビアンの魔女カップルが、カケラの海を追いかけっこしながら出会っては(東方の弾幕勝負のように)「ゲーム盤」と呼ばれるカケラ世界を舞台にボードゲームのように勝負をして勝ったり負けたり引き分けたりしながらイチャイチャしてお別れするというお話が、「~頃に」シリーズの背景設定にあります。「蛍火の灯る頃に」は漫画本編にこそ登場しませんが、書下ろし小説でふたりのゲームだったことが明かされています。他の同作者の作品も全く別世界観だと思しきものは別として、このふたりのゲーム盤の出来事だと何となく分かるものがほとんどです。「ひぐらしのなく頃に業/卒」は「視聴者(魔女は第四隔壁を認識しておりゲーム中にも「あなた」に呼びかけることがであります)」を騙すというルールを順守しつつ、ベルンカステルとラムダデルタが二人に憑依して実物の肉体でコスプレして「私たちの考えた最強のりかさと」を”魔女好みの”趣味の悪いグロ惨劇バトル百合ストーリーの台本通りに迫真の演技で演じていただけです。エウアも羽入も騙されました。一応伏線はあります。「キコニアのなく頃に」というゲームに登場する「フィーア」はラムダデルタのお気に入りの駒である鷹野にそっくりな外見をしています。おそらくこのフィーアはエウアが出会った時(ゲームではまだ描かれていません)にはラムダが乗り移っていたのです。つまり人違いなどではなくエウアは正しく中の人格を把握していました。しかし視聴者を騙す目的でラムダが初対面のフリをしたことで「記憶を失っているとは~」というセリフに繋がりました。エウアも視聴者も沙都子の中身がラムダだと見抜けなかったということですね。また業最終話では「絶対」「鳥かご」というラムダならではの単語を用いました。このふたつが沙都子の中身がラムダデルタであると示す手掛かりだったということです。またベルンカステルはひとつだけミスをしています。業2話で羽入の残り香と会った際「何にせよまた会えてうれしい」というようなループに疑問を持たない発言を行いました。梨花がこのような発言を行うはずがありません。何故なら原作の賽殺し編を通過した梨花はそのカケラでの経験から二度と繰り返さず次回の死を受け入れると決め、羽入にもそれを伝えたからです。どうしても諦めきれずにループしたのならその旨を伝えるはずですし、身に覚えがなくループしたのであれば羽入に自分の同意なくループさせたのかと尋ねるはずだからです。そもそも賽殺し編を正常に経験したかどうかが分からなかったので=ベルンカステルが中にいるとは連想できないと思いますが…。業卒の何もかもが魔女二人の台本通りに視聴者を騙しきるお遊びだったというオチですね。梨花と沙都子は二人ともお別れした方がいいというのもこの魔女カップルは気が遠くなるほどの年月をラブラブで過ごした結果相手が嫌になってしまいわざと離れて追いかけっこして遭遇したら殺し合いセックスするのが最高という趣味を持っており、これに基づいて台本を書いてその通りに梨花と沙都子を別れさせただけです。この真相以外の不可思議な作画ミスや世界の反転、嘘映像をシームレスに挿入してきたことや出題編と解答編の脚本レベルの矛盾(魅音の遺体の腕の位置など)は彼女らの魔女幻想による目くらまし、誤った推理に導くためのいわゆる「偽の鍵」です。沙都子が祭囃子編直後に両手を握ってプロポーズするのは、原作に存在しない梨花への恋愛感情を持っているのは、ラムダデルタが沙都子本人ではないため、沙都子というキャラクターを理解していないからです。梨花が詩音すら逃げ出してきたルチーア学園に行きたがる絶対の意志を持っている謎もベルンカステルが梨花がどういうキャラクターなのかを把握していないからです。魔女がそのように台本を書いたからです。何故仲間を簡単に殺せるのか?何故殺しを楽しんでいたのか?何故仲間に相談しないのか?何故クリアに絶対必須の番犬招集の鍵である富竹の死後にも余裕ぶっているのか?何故原作では自殺しなかった梨花が自殺するのか?魔女が細かい設定を理解していないからです。何故悪役が改心したのか?改心してから殺されたほうが絶対楽しいからという魔女の嗜虐心によるものです。全編を通して何故鷹野は殺されず救済されていたのか?ラムダデルタのお気に入りの駒で、同じゲーム盤の前回のゲームで負けたけど頑張ったご褒美だからです。何故取ってつけたようなハッピーエンド世界になっているのか?ラムダデルタがご都合主義好きでハッピーエンドに向けて頑張る子が大好きという設定があるからです。「ラムダデルタとベルンカステルが黒幕だった」という真相以外のすべての映像が考察や推理には何の関係もなかったということです。 「うみねこのなく頃に」や同作者が脚本を担当した最新の「LOOPERS」もそうですが、実はここからここまで全部幻想描写だった、現実ではなかった、という「未来世紀ブラジル」のような、なんちゃって叙述トリック()を非常に好む傾向があります。この作者の脚本の引き出しが少ないんですね。実は全部ふたりの舞台劇でした、というオチを新作でやるならともかく、ひぐらしをぶち壊しにしてまでやることではなかったと思います。エウアとの会話も超能力バトル展開もキコニアのなく頃にのファンサですし、ラムベルに関してはうみねこのファンサです。ひぐらしファンはひぐらしの新作を期待していたのに散々うみねこのキャラに引っ掻き回されて嫌な気持ちにされただけです。何と言えばいいのか、流石に自分のファンや顧客に対する態度ではないと思います。しかもこの真相に辿り着くことができるのは竜騎士07作品を十数年追いかけ続けた選ばれた信者だけです。自分はラムベル推しですが今回のサプライズはまったくうれしくありませんでした。驚きやしてやられたという感覚よりただひたすらゲンナリしています。 「レナ思うんだ。双子だって生涯を最後まで寄り添い合うわけじゃない。一緒に居た時間はとても濃密で、忘れがたいものであったとしても、ずっと一緒に居る事は決して定めなんかじゃないって」 「双子でさえ、家族でさえ別離が訪れる。でもね、それが二人の関係の終わりなんかじゃない。」 「なぁ沙都子に梨花ちゃん。親友の定義って俺はこう考えるんだ。たとえ一緒に居なくても、これから会うつもりが無かったとしても・・・いつかまた出会った時、自分も相手も絶対にずっと親友同士で居てくれると互いに信じあう事。そういうのが親友同士なんじゃないかなって思うんだ。」 「親友って言葉は手錠なんかじゃないし、もし片時も離れない事が親友だと思ってるなら、それは大きな勘違いだね。」 この一連のお説教は「LOOPERS」と同じメッセージを持っています。詳しいことは省きますが、つまり竜騎士07氏は学生時代からの親友でありひぐらしの共同制作者であるBT氏との死別を悲しみ苦しんでいたのだと思います。「別れた相手を想い続けて後ろ向きに生きることでしか関係を保つことができない」という一般的な考えよりも「自分さえ親友だと信じてさえいれば二度と会えなくても親友であることに変わりはないので、前向きに自分の道を生きて行こう」という考えが正しい、という結論を出したのではないかと。それを「うみねこのなく頃に」のラムダデルタとベルンカステルの「別れの口上」に重ね合わせているということなのでしょう。いやそんなこと誰でも知ってるしひぐらしと何の関係が…?勘弁してください。これが素直な感想ですね。まあ今回梨花と沙都子の本来の人格はずっと魔女に乗っ取られて登場していないですし、ゲーム盤は同じでも前回のエンディングとは繋がりがないので旧作のハッピーエンドをぶち壊しにしたということではないのは救いですが…。 新幹線の乗降口でのやりとりの元ネタは「うみねこのなく頃に」最終エピソードで魔女二人が決めたものの一部改変です。実在の映画の名台詞をベルンカステルが引用し、ラムダデルタが元ネタを当てて「いいじゃない、それにしましょ」と言ったことで決定した合言葉のようなものですね。「いつか会えるわ」などこの映画の名台詞から取られています。上記のシーンで二人きりで決めた別れの口上ですので梨花や沙都子がもし魔女化したのだとしてもそのことは知るはずがありません。従って中身が「うみねこのなく頃に」後のラムベルだと同定できるわけです。

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ですが、まだニンゲンだと言い張る方法はあります。今回のお話が映画だったというオチです。上記の説をそのまま幻想を大道具小道具役者エキストラSFXに入れ替えるだけですね。