織田信長はなぜ検地は余りしなかったのでしょうか?

補足

上洛前からの領地である尾張と美濃ではどうだったのでしょうか?

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ベストアンサー

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補足 「指出検地」は他の方の回答にある「差出検地」と同じ内容で、単なる「検地」は「丈量検地」と同じです。  残っている検地帳は、天正七年越前剣神社千手院領、天正十年能登の国分村・熊淵村、天正九年摂津の天川村の4冊、指出(検地)は天正八年大和の興福寺大乗院領、天正八年近江の安治村の2冊。  多分まだ発見されてないものもあると思います。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

回答ありがとうございます

お礼日時:10/23 23:11

その他の回答(2件)

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完全に天下統一が出来ていなかったためだと思います。 検地には検地奉行が検地人を現地に派遣しないでその地の領主に取り高を報告させる「差出検地」と、実際に検地人が現地に赴いて測量して行う「丈量検地」がありました。 後者の検地については、豊臣秀吉が行った太閤検地が有名で、その結果が慶長三(1598)年の検地帳によって確認され、日本全国の石高が分かるようになりました。 蛇足ながら、天正八(1580)年九月、明智光秀と滝川一益が大和国全体から差出検地をする為に派遣されています。 そして、織田信長によって、細川藤孝が山城国西岡から丹後国に転封された時、どうも「丈量検地」を行っていたようです。 「余分」「出来分」「残分」という記述があり、大和国や丹波国で行われていた「差出検地」から「丈量検地」に織田政権が舵を切ったと考えられています。 「余分」は藤孝に、「出来分」は一旦光秀に預けられ、光秀と相談するようにと決められ、さらに「残分」も藤孝に与えられました。 信長が基準とした度量衡は「京都法度之器物」と書かれていて、どうも「京桝」を使ったようです。

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検地や度量衡の統一は、まさに天下人の差配。天下静謐の折には間違いなく検地などを行っていたでしょう。