知恵袋の回答欄で“布教”している方々を見かけます。特にキリスト教系の方が多いようです。 質問者は 「何故神を信じられるのですか?」 「何故聖書を信じられるのですか?」

補足

まるで私は北センチネル島の先住民の気分です。

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ベストアンサー

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問題はそれを提示する際に「あなたにも当然分かりますよね。」という論調であることです。信者の間の常識を一般人に推し拡げる意図がなければそのような説明はしないのでしょう。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

結局は「神の意志」だそうです。 私はしょんぼりおうちに帰り、映画『パッション』と『アポカリプト』を鑑賞してしょんぼりと布団に潜り込み眠ります。きっと悪夢を見ることでしょう。寝る前にお祈りします。 「北センチネルの殉教者よ、安らかに眠れ。南無阿弥陀仏。」

お礼日時:10/17 20:16

その他の回答(6件)

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①全世界の人に福音を伝えるのは、クリスチャンの使命だから(ただし、信じることは強制しない。福音を聞いた人の自己責任でどうすべきか選べばよい)。 ②答えが、福音の中に隠されているから。

どんな答えが福音の中に隠されていようと私はそれが理論で示されない限り何らの信憑性もないものと見なします。私が生きているこの時代にあなた方が「信じることを強制しない」のが何よりの幸いです。スペイン人がやって来た時にアメリカ大陸に住んでいたかと思うと背筋が凍るのです。

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「…信じない?」とは済みません。勘違いしてる様です。 しかし、「聖句」の掲載は、発言の根拠です。「宣教」を目的とはしてません。 共に勘違いきてるんですね。

もし、彼らに“布教”する意図が微塵もなくとも、その“根拠”が無神論者に通じると思っているのが勘違いだと私は思うのです。こちらは理論による説明を求めているのです。

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ご意見に概ね同意です、もう一歩進めて考えたい。 布教という宗教伝道だけでなく「これが正しい、だからこれに従え」というのは非人間的です。しかしながら人は生まれて成長する過程で必ずその仕方で教導されるしくみになっています。まず親から次いで学校などの教育者・指導者から。ただしこの期間はやがて ‘卒業’ して自立した人間として生きてゆくのです。 ところが自立できない人間が少なくない。その最たるものが宗教です。これが正しい教えだ、この教えに従って生きるべきだ・・・そしてついには、この人の言うことが正しいという教祖・カリスマ信仰に陥り自分を失います。こういう人間は服従して生きるだけでなく、他人にも服従して生きるのが正しいと ‘布教’ します。 ただし宗教が悪だというのではありません。それは人間とは幻想を持ち、それを共有さえできる能力を有しているので宗教を生むからです。そしてこの知恵袋宗教カテで知恵を交換しあうのは、そういう人間の知恵を増し視野を広げる役にたつものです。 そのときに宗教だから論理的でないことが入ります。それを断定的に言うこともあるでしょう。問題はそこではありません。問題は宗教や信仰のことを理屈で説明しようとして嘘の事実や嘘の理論を根拠にすることです。わたしはこういうフェイクを見つけたら叩く。そうやって良質な知恵を交換したいと思っています。 具体的な例をあげれば「何故神を/聖書を信じられるのですか?」という質問の回答として、聖書は真実で矛盾がなく真理が書いてあるから、という答があったりします。この答はフェイクに溢れている。だから詳細を指摘します。

私も宗教を否定はしません。宗教の経典にも目を通します。私はその中の非科学的記述を排除し、哲学・思想的要素を抜き出します。すると大体の経典の記述は他の地域の思想との共通点があるのです。例えば『旧約聖書』の「コヘレトの言葉」の内容は中国の老荘思想と基本的に共通ですし、『嘆異抄』の悪人正機の善悪観はカントの定言命法に基づく善悪観と基本的に共通なのです。そのように人間の考える事は地域時代を問わず共通であるにも関わらず自分の宗教だけを絶対の真理として他人にも押し付ける態度が大変不快なのです。

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なぜ?と問われたら、聖典の言葉を根拠として答えるというのは、宗教の世界では当たり前なんですよ。 私は仏教を学ぶ人間ですが、空海だって、日蓮だって、皆そのようにして論書などを書いています。 聖書は神の言葉。 経典は仏陀の言葉。 なぜ?と問われたら、神がこう言うから。あるいは仏陀がこのように説くから。が絶対的な答えであって、私がこう思うから。では答えにならない。 それが宗教の世界での物事の論じ方なんです。 でも質問者さんは、神だの仏陀などが何を言っているのかには興味はなく、「あなた個人」がどう考えているのかを聞いているのに、何故か神や仏陀の言葉を貼ってくる。 →布教したいのか? と感じる。ということですよね。 恐らく、聖書等を引用する人の意図は、自分の主張の正当性を訴える「根拠」として引用しているのであって、「布教」を目的としているのではないのだけど、若干、宗教アレルギー的な質問者さんは「布教している」と感じてしまう。 まぁ、若干、被害妄想的な部分があるのではないかなと想像します。 その該当の質問のやりとりを見ていないので、あくまで私の想像ですけどね。

つまり宗教を信じた者は一個人というアイデンティティーを喪失するのですか?宗教に絶対服従することを強制され、一個人としての立場からあらゆる議論をしたり、何かに異議を唱えたりする権利を失うのですか?そしてあなた方にとって無神論者というのは根拠を持たずに生きている人間たちなのですか?宗教アレルギーは宗教者が人々に植え付けているものでは?

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当事者ではなくて、申し訳ありません。 おそらく、聖書にその様に書かれているからです。 賢い皆さんは、脅しめいた布教に惹かれる事はないでしょう。 布教する方は、堅く信じていらっしゃるので、簡単には変わらないと思います。 静観するか、離れるしかありません。 自らの無力さが悲しいですが > <

そうですね。ある程度は仕方ないのでしょう。私は公立中学校に通っていましたが、教教分離の原則に反して聖書を配った教師がいました。私としては信仰というものを持つならば、家族や教育機関、勧誘をきっかけとせずに、各自が自身の人生観・思想に合ったものを自分で選択して欲しいと強く願うのです。