私が人間として生まれ落ちたのは、 ある意味、欲を持ってしまったからではないかと考えています。 危機回避や生理的な欲求を持った本能を主として生きる動物としてではなく、

宗教 | 哲学、倫理87閲覧

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仏教では、生命体は業(行い)の結果として生まれてくると考えます。 生命体は仰る通り、生存欲や生殖欲、命を奪われる恐怖等に振り回され、その間にまた多くの悪業を積んでいきます。 生命体の中で人間だけが唯一これを認識し、善業を積んだり悪業を避けたり、中道に基いてバランス良く修行すればワンチャン業そのものから離れて輪廻のサイクルから解脱できる、というのが釈迦の説いた教えです。 生命体として生まれている時点で既に罰ゲームですが、人間にのみ改善のチャンスが与えられている、という考え方になります。 生存欲や執着といった問題はキリスト教ではあまり説かれませんし、「原罪」とも関係無いと思います。

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キリスト教は、人類の始祖は神に反逆して罪人となった(原罪)ので、 その子孫は、あたかも罪が遺伝するかのごとく、 全て罪人として生まれてくるようになった、また、罪の結果は死なので、 人類の始祖およびその子孫は死ぬものとなった、とします。 キリスト教は、人類の始祖の罪の結果として、 人類は全て罪を犯さざるを得ないような存在として生まれてくる、 ということが言いたいわけです。 キリスト教に関して言えば、悔い改めは、 単なる自己の行為に対する反省だけではなく、絶対王たる神に対する 従順を表明するというところにいかねばなりません。 神への従順こそが信仰だからです。 悔い改めとは、自分が罪を犯さざるを得ない存在(罪人)であることを 自覚すること、そして、そのことによって、自己の救いを 神の恩寵にゆだねる信仰に至ることを意味することになると思います。 つまり、悔い改めとは、キリスト教的に言えば、 自分の力を信じる倫理的道徳的努力をする者から、 神の恩寵を信じる(神への従順)者へと、回れ右することだと言える でしょう。

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貴方の親である男と女がセックスしたから貴方が生まれました。 ただそれだけです。

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あらゆる欲望を否定するのは仏教徒です。キリスト教徒は基本的に欲望を否定しません。仏教徒は苦行により「煩悩の火」を消そうとしますが、パウロは「欲望」と戦い、苦行で欲望を消そうとしても無駄であると言っています。キリスト教徒は、基本的に正しい方法で欲望を充足することは認められています。イエスも婚礼に招かれた時に葡萄酒を飲みましたから、通常の欲望を持っていました。

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罪とは人間が構築した社会というバーチャルにしか存在しない 自然界からすれば窃盗や殺害なども生活の知恵や工夫でしかない