古代王国の興亡パターンのテンプレはだいたいこうですか?
古代王国の興亡パターンのテンプレはだいたいこうですか? 1:新王朝の設立。 ↓ 2:功臣、政敵などの粛清。 ← ↓ 3:対外侵略戦争。 ↓ 4:字の一斉改変と普及、歴史書の作成と改竄。 ↓ 5:暴君、飢饉、侵略、天変地異が発生の場合は6へ。名君の場合は2に戻る。↑ ↓ 6:宦官、閨閥などの王皇室側近への跳梁、腐敗。 ↓ 7:乱世到来し秘密結社の乱立と農民反乱の全国化。 ↓ 8:異民族や地方群雄が中央侵入。 ↓ 9:1から繰り返し。
ベストアンサー
古代に限らず中国王朝の興亡については一定のサイクルがあります。明治大学教授の加藤徹氏の著書『貝と羊の中国人』の中に「人口から見た中国史」という項目があり、ここで中国王朝の歴史は概ね建国期→繁栄期→衰退期→交代期というサイクルを繰り返しているという考え方が提示されています。 それぞれのサイクルについては <建国期> 後述するとおり一般的に人口が減少した状態であるため、政府は基本的に税金を少なくして民衆を休める政策を進めていきます。この結果人口が増加に転じて太平の世の中となります。 <繁栄期> 人口が増加することにより税収が増加し、これを背景に政府は大規模土木工事や領土拡張を行います。このため民衆の負担が増加し、一般的には生活の質は悪化する傾向となります。また、農地の新規開拓は人口増加に追いつかない傾向が強いため、人口あたりの農地面積は減少していきます。この結果、仮に税率が変わらなくても農民の手元に残る所得は減少していきます。 <衰退期> 人口あたりの農地面積が減少することにより人口あたりの食料供給量も減少に転じ、飢饉が起こりやすくなります。生活も悪化して社会不安も広まり、 農民反乱も多発しやすくなります。当初は政府による反乱鎮圧が行われますが、政府側の経済状態悪化も発生しており次第に鎮圧できなくなっていきます。 <交代期> 度重なる反乱と経済状態悪化により政府の支配力が低下し、地方軍閥や地方政権が半独立状態となります。この結果、禅譲や戦乱による王朝交代が起きます。この過程で人民の大量死亡と出生率の大幅低下が起き、人口の大量減少が発生します。 これを繰り返しているということですね。 質問者様の1~9を該当させるのであれば <建国期>1、2 もちろんこの恤民が十分に出来ていないと人口が増加に転じず、すぐに交代期に移ります。西晋や隋がこのパターンですね。 <繁栄期>3~6 建国期に増大した人口と税収を背景に国家的プロジェクトが行われます。 プロジェクトが適切な範囲であれば名君に分類され、やり過ぎると暴君に分類されます。ただその差はそこまで大きくないので、名君か暴君かは紙一重でしょう。「名君は失敗しない」というより「失敗しなかったものが名君と呼ばれる」というところです。 ただ、この時期は国内は平和が続くので、これに伴う官僚の腐敗は進行します。そのため、名君だからといってサイクルを戻せるわけではありません。良くて進み方をゆっくりにするだけです。 <衰退期>5~7 人口は増大しても農地面積はなかなか増大しないため、どこかで転換点が訪れます。そうなると経済的困窮が進み反乱が勃発するようになります。 官僚の腐敗は農民が経済的に潤っていれば多少は目こぼしも効きますが、困窮していると目の敵にされます。これも十分反乱の種です。 <交代期>8~9 常備軍が反乱鎮圧を行いますが、次々に起こる反乱に対して消耗する常備軍、さらに常備軍を養う国家経済が困窮化するので、どこかで反乱を鎮圧しきれなくなります。そうなるとよからぬことを考える異民族や地方軍閥も出てきます。 ただ、歴代を見ると西周や北宋南宋、金などは外患が強すぎてこのサイクルを満たさずに滅亡した感じです。元は事情が特殊なので当てはまりにくいかもしれません。 概ね同意はしますが、個人的には「名君でもいずれは6に行く」というところだけ違っていますね。 加藤氏はこのサイクル1周の目安は最長で10世代300年程度と言っています。
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