ここから本文です

江戸時代の石高の加増とは具体的にはどう云う事をされたのでしょうか。転地、移封...

ses********さん

2009/4/2511:11:58

江戸時代の石高の加増とは具体的にはどう云う事をされたのでしょうか。転地、移封が伴わない場合は他藩や天領を裂いて与えたのでしょうか。

閲覧数:
588
回答数:
2
お礼:
50枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

kou********さん

2009/4/2707:01:27

加増のケースによって方法が異なっていますが、「転地、移封が伴なわない場合には他藩や天領を裂いて与えた」ら隣の藩は困りますね。
大きな加増の場合には大体が「飛び地」になっています。
「飛び地」は秀吉が大阪城に入城した頃から発生していて、秀吉は遠方から秀吉の下に帰属した大名に対して、大坂屋敷の賄い料として畿内に数千石から数万石の飛び地所領を与えています。遠方の自領国からいちいち米を回米しなくても大坂屋敷が維持できるようにして、代わりに大名に大坂詰で豊臣政権の政務を執らせたわけです。
徳川幕府になっても、初期には赴任地と石高が合わずに「飛び地」が存在しました。徳川四天王の一人本多平八郎は南総・里見氏の押さえとして千葉の大多喜で十万石で赴任しましたが、大多喜周辺ではどうやっても五万石程度の収量しかなく、残りを伊勢・松阪附近に知行地をもらい、合計で十万石をもらっていました。(やがて本多平八郎はこうした二重生活を嫌い、里見氏の反乱の怖れが薄れると願出て伊勢方面に集中した所領をもらい大多喜を離れます)
徳川中葉では八代将軍吉宗の子が清水・田安・一橋の「御三卿」となり、それぞれ十万石を与えられますが、御三卿は藩や城を持たず、全国各地に小さな知行地を持ち合計で十万石にしています。多い時には十数ヶ国に知行地があった記録が残っていて、全て幕府の代官が年貢徴収を代行した上で各家に納められます。
一般の大名の場合には、大規模な「飛び地」には陣屋を設けて独自の代官を置いて年貢徴収や治世しています。
小規模な「飛び地」の場合には、直接の代官を置かずに庄屋などに年貢徴収を代行させたりしています。

上記はその家に対して家禄として代々継承できる場合ですが、一代に限ってや、XX奉行やXX代官になってその就任期間内だけ加増される場合には、知行地として統治権を与えない代わりに幕府が蔵米から支出する方式を採用しています。この場合は「四公六民」が原則で知行地より低い年貢の率ですが、加増を受けた者が代官等を置く必要がありません。また役職用に充てる天領もあり、地方奉行や地方代官はその地で得た年貢中一定量を役職加増分として受取していました。

質問した人からのコメント

2009/4/30 19:53:00

成功 石高というとひとまとまりの藩とか地域のイメージしか有りませんでしたが飛び地で調整が成されたんですね。勉強になりました。有り難うございました。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

yd9********さん

2009/4/2704:40:00

・・・それは大名が家臣に対して行ったものか、あるいは幕府が大名に対して行ったものかで違うと思いますが。

あわせて知りたい

この質問につけられたタグ

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる