鎌倉時代において、直垂の露は外に出ておらず、その末端だけが外に出ていたそうですが、下の画像には露が外に出てますよね?当時は高貴な武家であれば籠括ではなかったということですか?
鎌倉時代において、直垂の露は外に出ておらず、その末端だけが外に出ていたそうですが、下の画像には露が外に出てますよね?当時は高貴な武家であれば籠括ではなかったということですか? また、下の画像では袴は切袴ですが、別の文献では裾が籠括であったとありました。どっちなんでしょうか?時代によって変わったのでしょうか? 以上2つことを教えて下さい。よろしくおねがいします。
ベストアンサー
装束の事が書かれている本を見ても、袖括りの事はあまり書かれていません。 室町時代の義満の時代になると、公家も着用するようになり袖括りの緒があるのが、武家のものとの違いで本は武家のものも袖くぐりがあった、と書かれています。 ある本には直垂には裁縫の後、縫い目の綻びを防ぐ為要所々々に菊とじが施してあり、又袖口には狩衣の袖口の様に袖括りが通してあるが上刺しにせず、括り縫いされ、袖下の所にのみあらわしている。最初は狩衣と同じく、この緒をしめ、動作に便利にしたのだろうが、後には、このあらわされた所のみを、菊とじと同じ緒で付けこれを露というとあります。 別の本では直垂を狩衣直垂としてあるので、これがそうした袖の括りや露のある狩衣の影響を受けた直垂の事だと思います。普通は露のみ出た形とありますが、庶民から出たものなので、着用者の地位でどうにでも替えられ、材質は平安後期以来錦が一番尊ばれたそうです。袴も足利時代に長袴(引きずるものでは無い)に定められたとありますし、裾の括りや長さ・袖の括り紐も身分や状況で違ったのでは無いかと思いますが、推測です。 鎧の下も初期の水干から代わり鎧直垂になりましたが、袖を狭くしてそのままだったり袖括りをし、裾口にも括り紐をいれた形です。
質問者からのお礼コメント
わかりました。ありがとうございます。
お礼日時:1/26 6:56