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2022/1/22 5:33

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陸軍大臣だった東條英機氏が総理大臣に任命されたのは1941年10月18日でした。日米和平交渉は既に始まっており、日米の意見の違い、それぞれの要求事項も明確に分かっていました。

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

そう言う事だったのですね。有難うございました。

お礼日時:1/29 13:26

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いわゆる「白紙還元の御諚」ですね。これは天皇はなく、木戸内大臣から東條に伝えられたものです。木戸はもしこの勅が実現した時、どんな反動がおきるか、それを心配し自分が間に立っておこうとしたと思われます。 陛下の思し召しを真摯に受け取った東條は、11月1日の政府大本営連絡会議(事実上の日本最高意思決定会議)の席でこれを披瀝し、賀屋興宣蔵相などは同調してこういいました。 「私はアメリカが戦争をしかけてくる公算は少ないと判断する。結論として、戦争を決意することがよいとは思わない」 これに対し海軍の永野修身軍令部総長は色をなして反論します。 「来たらざるを恃むことなかれ、という言葉もある。先のことは一切不明だ。安心はできないのだ。3年たてばアメリカは強くなる。敵艦も増えてしまう」 「いま! 戦機はあとには来ない。いまがチャンスなのだ」と机を叩いて力説したといいます。 東條は『海軍さえ、戦争は出来ない』と言っていくれれば、方針転換のつもりでしたので、永野この強気の態度に言葉を失います。 続いて11月29日、東條は総理経験者と政府、軍の責任者を宮中千種の間に集めて、戦争方針に関する会議を開きます。東條の秘策は「日本の船腹量」にありました。日本は充分な船舶がない限り、資源地帯を手に入れる事が果たして出来ても、継戦能力につなげる事が出来ません。一年か二年しか保証しない海軍に長期持久の目処は立たないので、これで海軍の主戦論を封じれると思ったのです。 「わが国の保有する船腹は600万トン、補充用の生産数は年60万トン。」東條は彼らしく、しっかりした数字をもって、これで戦争を戦えるかと海軍に詰め寄りました。 しかし海軍は予想損失船舶量と増産数をきっちりはじき、見通しの帳尻が合うと説明し、かわしたのでした。後にわかる事ですが、この時海軍が利用したデータは第一次大戦の古い資料で、都合の良い結論に至るよう恣意的に作為されたものでした。 実際に日本の必要な船腹は、この戦争で消滅してしまいます。 これで東條のささいな抵抗は潰えました。もはや戦争を決し一枚岩となった海軍を崩せなかったのです。 彼が実際にやった事はこの程度で、宮城に向かって泣いたとかの逸話の真偽は不明です。