1575年の長篠合戦で疑問です。 織田信長が雨に不利な鉄砲を梅雨時期に使おうとした理由は何ですか?

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織田信長は、天正三(1575)年秋に大坂本願寺攻めを計画し、細川藤孝に付城を造るように命じています。 その為、長篠の戦いでの兵力削減を危惧していました。 ですから、武田勝頼を長篠城から設楽原に呼び込んでの鉄炮戦を仕掛けたのです。 勝頼が残した書状には、今回の出陣は第一に大坂本願寺を支援する為だと書かれています。 勝頼にとっては引くに引けない戦いが、長篠の戦いでした。 なお、設楽原の中央に流れる連吾川から、織田・徳川連合軍が造ったとされる馬防柵までの距離が約50mで、当時の火縄銃が相手に当たる射撃距離内です。 最後に、他の方の回答にもありますが、当時の火縄銃は余程の暴風雨でもない限り使用できる対策が採られていました。 そして、当時の史料の何処を見ても、大坂本願寺と織田家の講和が進んでいたというものはありません。 織田家・大坂本願寺側の両方を調べてもです。

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機関部(カラクリ)の上に被せる箱があります。この箱を被せるか屋根をかければ火縄銃の射撃は十分可能です。またものすごい豪雨でなければ硝石をたっぷり染み込ませた雨火縄がありますので射撃は可能です。また長篠の戦いの場合は柵をつくったりするような防衛戦なので、箱をカラクリに被せて重くなってもたいして不便でもなかったはずです。むしろ鉄砲を持って攻めてくる武田の方が不利なはずです。

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織田徳川軍38000人に対して鉄砲は1500〜3000丁だから10人に1丁ももってない。とんでもない豪雨以外なら使えはするし、なんといっても数が異常に多い。仮に3割駄目でも1050〜2100丁だから十分機能する。 武田軍が1000〜2000人ずつ部隊ごとに攻撃してくるのに対して、鉄砲1500〜3000丁あればほぼ無被害で撃退できる(1000丁あれば十分すぎる)。 いっぺんに全軍で攻撃されたら織田徳川側にもかなり被害がでるが、部隊ごとに攻撃だから順番に撃退すればいいだけだから。

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当時、既に雨火縄と言って、木綿に硝石を染み込ませ、雨でも消えない火縄が配備されていましたので、大雨で火薬が水没でもしない限り、雨でも火縄銃は使えました。

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・・・別に「鉄砲隊だけ」で編成したわけではありませんから、わざわざ鉄砲隊だけを編成しない理由もありませんが。 梅雨時だろうが「使える時は使える」ので、持ってる武器をわざわざ戦争に使わないことに意味があるとは思えませんが。 実際には使えたわけですし。