日本史Bで分からない問題があります!回答お願いします。
日本史Bで分からない問題があります!回答お願いします。 Q1,萩の乱、佐賀の乱、西南戦争などの反乱は全国的規模で発生したものではないことがわかる。士族の反乱が発生した地域の特色はなんだろうか。 Q2,「天下ノ公議ヲ張ルハ民撰議院ヲ立ルニ在ル」という主張と、「五箇条の御誓文の草案」第1条の「列侯会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」との違いは何だろうか。 Q3,1871年の台湾での琉球漂流民殺害事件に対し、清国が現地住民の殺傷行為に責任を負わないとしたが、清国がこうした対応をしたのはなぜだろうか。 よろしくおねがいします!
ベストアンサー
Q1,萩の乱、佐賀の乱、西南戦争などの反乱は全国的規模で発生したものではないことがわかる。士族の反乱が発生した地域の特色はなんだろうか。 いずれも、討幕の中心となった地域で、新政府の改革(近代化)に不満を持っていた。 ※※※萩の乱(元の長州藩)、佐賀の乱(元の肥前藩)、西南戦争(元の薩摩藩)。 とくに長州藩の場合は、戊辰戦争の恩賞に対する不満から、奇兵隊の一部は反乱(明治3/1870年)をそれ以前に起こしたりしています。 Q2,「天下ノ公議ヲ張ルハ民撰議院ヲ立ルニ在ル」という主張と、「五箇条の御誓文の草案」第1条の「列侯会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」との違いは何だろうか。 草案にあった“列侯”とは大名のこと。 なのでソレがそのまま“五箇条の誓文”となれば、“大名会議”で政治の方針案が決定するコトとなります。 それに対して“民撰議院設立建白”にある主張は、五箇条の誓文にある“萬機(ばんき:重要な事柄)公論(=世論)”に基づく政治を実現するために、“民衆の代表からなる会議の場(=民撰議院)”が必要だと。 Q3,1871年の台湾での琉球漂流民殺害事件に対し、清国が現地住民の殺傷行為に責任を負わないとしたが、清国がこうした対応をしたのはなぜだろうか。 “日本の要求”に応じて処罰すれば、“琉球の人々は日本の保護下にある(=日本の領土)”というコトを、清が認めたこととなるため。 ※※※江戸時代の“琉球王国”は薩摩藩の支配下にあったが(1609年~)、薩摩藩は琉球に対して“清への朝貢(貿易)”をさせていた(朝貢=属国[清の一部])。そのため明治になって国境を定める際、“琉球の日中両属(実質は日本の一部だが、形の上では清に属している関係)”が問題となり、明治政府は清の様子を窺いながら、“琉球が日本の一部”という既成事実を積み上げていました。
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質問者からのお礼コメント
とても丁寧にありがとうございました!分かりやすいです
お礼日時:5/24 22:11