北条義時は、何故承久の乱で後鳥羽上皇に勝つ事が出来たのだと思いますか?

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ありがとうございました

お礼日時:5/24 22:01

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後鳥羽上皇側が油断しすぎてたのと、東国武士団の危機意識が非常に強かった。 後鳥羽上皇は幕府内の北条家とそれ以外の対立関係や源氏将軍が絶えたことによる混乱や結束力の無さを過大評価した。実際には東国武士団にとってはそもそも幕府が消滅したら自分たちの領地を失うという危機感の方がずっと上だから一致団結した。 挙兵するなら西国武士を呼んでから挙兵すべきだったが、京都周辺のわずかな兵力で挙兵したから、西国武士が来る前に幕府の大軍に叩き潰された。戦略が酷すぎる。

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こんにちは貴方の質問に解答します。 原因の一つに 後鳥羽上皇は、鎌倉幕府が進める荘園政策にも不快感を覚えていました。これまで各地の荘園は皇室や貴族、寺院に寄進を行っていました。荘園は後鳥羽上皇の収入源でもあったのです。 ところが、鎌倉幕府は荘園に地頭を派遣したため、荘園の寄進が減少してしまいました。西日本の荘園からの寄進はあったものの、東日本の荘園からの寄進が停止したのです。 更には 後鳥羽上皇は、鎌倉幕府の内部で混乱があれば、御家人同士が争い、朝廷がつけいるチャンスが生じるのではと考えました。鎌倉幕府では将軍家ではなく、北条氏が執権として実権を握っていた時代です(ちなみに、当時の執権は北条義時でした)。 ps 源頼朝の妻であった北条政子は、源頼朝らの恩を説き、一致団結するように呼びかけました。執権北条義時は北条政子の演説の三日後、多数の軍勢を京都に差し向けます。 宇治川で対峙した後鳥羽上皇と幕府軍の戦いは一日で決着が付き、後鳥羽上皇の敗北が決定的となりました。

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上皇方は、あてにしていたほど兵が集まらなかったのが原因です。

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後鳥羽上皇に対しては、朝廷の中でも面従腹背状態。 御家人にちゃんと年貢を都へ運ばせている幕府の支持派が朝廷の主流であった。後鳥羽上皇の愛人と地頭との対立という私怨なんかに、朝廷の主流派は本気で賛同できなかった。