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端的に言うと、京方(後鳥羽上皇側)の油断と北条政子の演説が原因です。 承久の乱の契機となったのは源実朝の暗殺と、これに伴う源氏嫡流の断絶、摂家将軍となる九条頼経の鎌倉入りです(征夷大将軍就任は承久の乱後の1226年です) これに伴い精神的支柱である源氏嫡流の将軍を喪ったことにより、鎌倉の御家人の間で内乱が起こる下地が出来ていると判断して近国の御家人を招聘しました。これに応じた中には佐々木広綱(頼朝挙兵当時から従っている佐々木四兄弟の長子定綱の息子)や三浦胤義(三浦義村の弟)、大江親広(大江広元の長子)、小野盛綱、大内惟信(源氏門葉筆頭の大内惟義の長子)といった有力御家人が含まれていました。特に三浦胤義が「兄義村はきっと京方に味方するだろう」と断言していたのは大きく、さらにこれだけのビッグネームが集まったことで鎌倉討伐の成功を確信したのでしょうか、招聘に応じなかった伊賀光季を急襲してこれを討ち取ります。ここまでは完全に京方が先手をとっています。 ところが、このあまりの有利さ(と京方が思っているだけだったかもしれませんが)により気の緩みが表れたのか、京方の義時追討院宣は伊賀光季急襲の同日に発されたものの出発がなぜか大幅に遅れています。実際に使者が京を出たのは翌日の早朝と伝わっています。これにより、伊賀光季が出した急使に専攻される羽目になり、結局この差が響いて院宣は光季の急使に遅れて到着することとなりました。 ここでポイントになるのが有名な北条政子の演説です。本来宣旨は「後鳥羽上皇直々の意志にて、北条義時の追討を命じたもの」であったのですが、演説の中では「逆臣の讒に依りて、非義の綸旨を下さる」と宣旨の詳細な内容を「非義の綸旨」とぼやかした上で、「逆臣の讒に依りて」と宣旨の主体を逆臣(=京方の武家の首謀者である藤原秀康・三浦胤義)とすり替えています。これにより、挙兵した京方の目的は「鎌倉政権そのものを討滅すること」と認識させ、真の敵は「上皇でなく逆臣」であると認識させました。 前者については当時鎌倉政権を端的に指す言葉はなく、事実上の最高権力者である義時を名指しにしたのは自然なことである(後の後醍醐天皇の宣旨でも討伐対象は「北条高時」となっています)とし、この宣旨の意図が本当に北条義時個人を指していたのか鎌倉政権全体を指していたのかは現代の専門家の間でも議論になっています。 しかし、後者については鎌倉政権が成立したとは言え朝廷への恐れが大きかったこの時期に「敵は逆臣」としたのは実に大きな影響を持っています。何しろ鎌倉方の攻め手の大将であった北条泰時は義時に「君の輿には弓は引けぬ、ただちに鎧を脱いで、弓の弦を切って降伏せよ」と、後鳥羽上皇自身が親征した場合は降伏するように言われていたと『増鏡』に伝わっています。乱の首謀者が後鳥羽上皇であったと言うことが明確に示されると御家人の結束が完全に崩されることが分かっていたからこその発言でしょう。 しかし後鳥羽上皇が親征することはなく、電撃的に京都を急襲した鎌倉方は降伏することもなく迎え撃つ京方の武家勢力を粉砕します。先の伊賀光季急襲の際に京都近辺の武家勢力は招集しましたものの、西国の武家勢力の招集は後手に回ってしまいました。これは宣旨が届けば鎌倉方の武家勢力は雪崩を打って京方に降伏し、鎌倉政権が瓦解するであろうと京方の多くの人物が思っていたためと考えられています。 兵力的にも(鎌倉方19万騎vs京方2万騎弱)士気の上でも明らかに優位に立った鎌倉方は勢いそのまま京に雪崩れ込み、乱の終結に至ります。 こうしてみると京方の油断は極めて大きいです。 ①宣旨の使者の出発が迅速でなく、鎌倉方に対策をとらせてしまった ②西国の勢力への招集を怠り、防衛が後手後手に回った ③防衛戦に上皇が親征せず、上皇が主体の乱であることを明示出来なかった といったあたりが大きな原因となります。特に2番目が致命的で、当時鎌倉政権が掌握していた武家勢力は東国に限られており、仮に北条政子の演説で鎌倉政権の御家人が結集したとしても西国武家の兵力を考慮すれば勢力は互角。士気の差こそあれ、まだ渡り合えた可能性がありますがそれをしなかったのは極めて大きい失点です。 しかし、ここまで油断してしまうのも無理もありません。何しろ鎌倉時代の時点では過去に朝敵とされた人物で討伐軍を返り討ちに出来た例は皆無であり、結束が瓦解せずに逆に攻めてくるなど夢にも思わないのが普通です。むしろ油断どころか「ここまで慎重に事を運ぶこともないだろう」とすら思っていたかもしれません。 しかし、この「想定外の反攻」に出られたのは北条政子の演説の影響は十分否定出来ないレベルにあるのは否定出来ません。それだけ「天皇に対する畏れ」はこの頃はまだ大きかったものと考えられます。 なお、よく描写される「御家人が演説に感動して同心を誓った」というのはあまり実状を示したとは言い難いようです。たとえば武田信光などは「鎌倉が勝てば鎌倉につき、京方が勝てば京方につく」ことが武家の慣わしと広言し、鎌倉から恩賞を約束する書状が届いてから積極的に進軍を始めるという様が『承久記』に描写されています。そういう意味ではまだ「無条件に京方に味方する」ことから脱して「鎌倉方か京方か」の二択に持ち込めただけマシだったと言えるでしょう。この段階では西国の朝廷方の武家の領土が山積みになっており恩賞にも事欠かず、利害関係でも有利に立てます。 現にこの時期に西国に勢力を確保し、その地に分家を残した御家人は武田氏(安芸武田氏)や大江氏(安芸毛利氏)、熊谷氏(安芸熊谷氏)、那須氏(備中那須氏)、島津氏(越前島津氏)など数多いです。
質問者からのお礼コメント
ありがとうございました
お礼日時:5/24 22:01