江戸時代の武家官位について教えてください。次の知恵袋の回答の中に、

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島津家に対する幕府の対応や扱いが判るかなと思い 大名の家格に関する過去回答を貼って置きます https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14262831489 伺候席は家格、官位や役職で大名を格付けしたものです 上から大廊下、溜詰、大広間、帝鑑間、柳間、雁間詰、菊間広縁詰と分けられ 島津は大広間です 大広間は御三家の連枝、国持ち大名準国主大名、前田家支藩の大聖寺藩主が詰めてます 大広間の主な大身外様は 島津、伊達、黒田、浅野、鍋島、毛利、池田、蜂須賀、山内など松平姓を下賜された大名や細川、上杉などです 島津を重く扱った形跡はなく重く扱ったのは前田家だったと思います 但し江戸時代後半、薩摩と幕府は急速に接近し重く扱われてます しかし薩摩は幕政に参画できず、次第に倒幕へ傾いてます

ThanksImg質問者からのお礼コメント

いろいろ勉強になりました。ありがとうございます。 >松平姓の下賜は江戸初期に有力外様大名の懐柔策として色んな大名に下賜してます 私みたいな単純な人間にはそこら辺の機微がなかなか想像できないので、ストレートに考えてしまいます。 ありがとうございました。

お礼日時:7/5 11:53

その他の回答(2件)

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守名は3000石以上の旗本でなければならないは大間違いです。3000石以上でも無位無官の旗本は多々、逆に3000石以下であっても授爵して従五位下⚪⚪守はいくらでも存在します。要するに諸大夫(老中支配の役職ですが若年寄支の役職もあって例外が多すぎ)である町、勘定、作事、小普請、普請、等の奉行職、書院番頭、大番頭、等の武官の長、大目付(監察)、将軍近侍の小姓などが従五位下に叙せられ守名を名乗ります。諸大夫の一歩前が布衣(ホイ)を許される役職です。六位の叙位は旗本には無く六位相当とされ守名は名乗りませんが官職由来の通称とする事例が多いです。 島津薩摩守など存在しません。島津は賜姓松平で松平薩摩守もしくは松平修理大夫を名乗ります。国主大名ですから別格の扱いは何ら不思議ではありません。 鳥取の池田さんも賜姓松平です。因幡の国主ですから因幡守若しくは先祖由緒相模守を名乗ります。江戸後期の池田(松平)の殿様は授爵するに当たり相模守を希望しますが不可となります。旗本に松平相模守がいたのです。同姓で同一守名は禁止なのです。鳥取藩から旗本松平相模守に相模守を譲って欲しい別の守名にして下さいと申し入れがあったのですが松平相模守は拒否。鳥取藩からの再三のお願いとかなりの謝礼が送られようやく旗本松平相模守は相模守を辞し別の守名になって鳥取の殿様は晴れて松平相模守となりました。 武家の任官、叙爵の過去回答にはかなりの誤解や曲解が見受けられます。それほどまでに複雑な世界なのです。

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辺鄙な鹿児島から彼らを追い出すより、諸外国とくに南蛮スペインなどの西欧諸国への防御や楯のつもりだったと思う。