江戸時代の武家官位について教えてください。次の知恵袋の回答の中に、
江戸時代の武家官位について教えてください。次の知恵袋の回答の中に、 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1067581240 「これを当時『守名乗り』と言いました。 ただし、これには資格があり、三千石以上の旗本でなければならない。また、政策的に次の国名は儀礼上、避けなければなりませんでした。 すなわち、『武蔵守』は将軍家への遠慮から、『尾張守』『薩摩守』『三河守』は、それぞれの国主への遠慮から希望する事が、出来ませんでした。」 とか、別の回答で 「国持大名による領国名優先使用 加賀前田家の加賀守 福井松平家の越前守 仙台伊達家の陸奥守 薩摩島津家の薩摩守 紀州徳川家の常陸介 福岡黒田家の筑前守 佐賀鍋島家の肥前守など」 と言う回答があります。 どちらも薩摩が入っていますが、島津って関ケ原では豊臣方だったのに、どうしてこんなに重く扱われたのでしょうか。
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質問は武家官位について、ではなく家康や幕府が関ヶ原で敵対した島津に寛容だった事について でしょうか? 史料から指摘されてるのは、島津義久の2年に及ぶ交渉と、井伊直政による仲介です 関ヶ原で西軍に加わったのは、弟の義弘が率いる3千です 薩摩兵は島津の退き口として有名な少数での敵中突破で、強兵だとの印象を強く残してます 豊臣政権の一角にあった義久は、弟の義弘に家督を譲ってますが大御所として薩摩を支配し、3万程の無傷な兵が残ってます 関ヶ原直後、家康は秀忠を総大将に島津討伐軍を命じますが取り消しており 黒田如水ら九州諸侯の自主的な討伐軍編成にも、冬が近いからとの書状を送り待ったをかけます ここからは推測ですが、関ヶ原で強兵との印象を与えた薩摩には2~3万の無傷な軍勢が居ます 討伐が長引けば毛利や反徳川がどう動くか分かりません 家康は、足利支流の名家今川家で教育を受け育っており、由緒を重んじてます(利用?) 甲斐源氏の武田遺臣を多く召し抱え、赤揃え軍も復活編成してます 遠江侵攻の際、鎌倉以来の御家人大沢家の当主基胤は頑強に抵抗しますが勧告を受け入れると、家康は基胤を家臣に加え重用 息子の大沢基宿は家康の将軍宣下に際し、二条康道と式典の折衝を取り仕切っており、高家旗本の始まりとされてます 他に足利一門である石橋、吉良、今川も厚遇しており これらも秀忠の代に高家に上ってます 島津家の家祖島津忠久は、源頼朝より薩摩、大隅、日向、越前と4カ国もの守護に任じられてます 家康が知ってたかどうかは分かりませんが、源頼朝血縁との史料も見受けられます(三長日記だったかな?) 知っていたとすれば、源氏長者を名乗る家康としては利用できると考えたのかも? いずれにしろ強敵と考えたのか、利用価値があると考えたのかは家康にしか分かりません 畿内や東海であればほっとく訳にはいかなかったでしょうが、島津は九州の南端です 地理的に脅威とは成り得ず、臣従すれば良しとする一職支配だと思います 強兵の薩摩を苦労して討伐しても得るものは少なく、徳川の毒にならなければ良いとの判断だと思います 推測ばかりですが、ごく自然に考えてみました まあ、250年後には毒となってますが、、、
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島津家に対する幕府の対応や扱いが判るかなと思い 大名の家格に関する過去回答を貼って置きます https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14262831489 伺候席は家格、官位や役職で大名を格付けしたものです 上から大廊下、溜詰、大広間、帝鑑間、柳間、雁間詰、菊間広縁詰と分けられ 島津は大広間です 大広間は御三家の連枝、国持ち大名準国主大名、前田家支藩の大聖寺藩主が詰めてます 大広間の主な大身外様は 島津、伊達、黒田、浅野、鍋島、毛利、池田、蜂須賀、山内など松平姓を下賜された大名や細川、上杉などです 島津を重く扱った形跡はなく重く扱ったのは前田家だったと思います 但し江戸時代後半、薩摩と幕府は急速に接近し重く扱われてます しかし薩摩は幕政に参画できず、次第に倒幕へ傾いてます
質問者からのお礼コメント
いろいろ勉強になりました。ありがとうございます。 >松平姓の下賜は江戸初期に有力外様大名の懐柔策として色んな大名に下賜してます 私みたいな単純な人間にはそこら辺の機微がなかなか想像できないので、ストレートに考えてしまいます。 ありがとうございました。
お礼日時:7/5 11:53