西暦239年、卑弥呼の使者である「魏志」難升米(「日本書紀」難斗米)達は、魏の都である洛陽に入ります。

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補足

天子へ謁見は南の門から入ると思いますが、 使節団の洛陽城への接近で、北邙山を越えて入ってはならないとの決まりがあるなら、 その文章と文献名を教えて下さい。

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丁寧で勉強になる回答、大変有難うございます。 サイエンス(学問等)カテゴリーなのに「魏志」倭人伝なんてデタラメだ!の回答が多く、ウンザリの処、ホットしています。 船が伊洛河を航行できないケースもありは、文献では無く、Google地図の衛星画像を観ての推測です。 黄河との合流部は、古くは砂州が多く拡がっていたように観えるのです。(私の20年の地図検索の経験です) この質問は邪馬台国の謎に近づく為、大きく2つの目的があります。 その1つを云います。 難斗米(難升米は間違い!)は、非常に優れた武人、政治家、外交官であり、白馬寺の一部の建て替え工事を見たのだと考えるのです。 明帝のときから180年が過ぎていますので、当然のことです。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

2015年、孟津県新庄村(会盟鎮の南部)から後漢時代の国営の大型焼き窯遺跡が発見されているようです。 河南省洛陽:後漢時代の大型焼き窯遺跡発掘 新華網日本語 http://jp.xinhuanet.com/2015-08/19/c_134532438_2.htm やはり、難斗米達はこの窯群を見たのだと思います。 河の流れは時代と共にと変化します。 有難うございました。

お礼日時:7/5 9:01