本能寺の変後も足利将軍は存続していたのに、織豊時代とか、安土桃山時代というのはなぜなんでしょう? 家康が征夷大将軍になる1603年まで室町時代または戦国時代でよくないですか?

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他の方の回答にもありますが、歴史学者の藤田達生氏は、足利義昭が備後国鞆に移った以後のことを「鞆幕府」と言われています。 しかし、それでは矛盾が起きます。 足利義昭が二度目の挙兵をしたのは、元亀四(1573)年七月三日、室町御所を近臣に預けて、京都郊外の宇治にある寵臣:真木島昭光の居城である槙島城に移った時です(『兼見卿記』)。 織田信長はこれを知ると、滞在していた近江佐和山城から大軍を率いて九日に上洛しました(『兼見卿記』)。 信長の上洛を知った義昭は、大坂本願寺を始めとして味方の諸将に挙兵を促しますが、諸将の動きはすこぶる鈍く、十七日には信長自身が大軍を率いて槙島城付近に押し寄せ、近辺を焼き払いました。 すると義昭は、信長に嫡男を人質に出して降伏し、十九日、槙島城を去りました。 蛇足ながら、この時、義昭が人質として出した嫡男は後年僧侶となり「義尋」と名乗りました。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

皆様、ありがとうございました。

お礼日時:7/7 19:08

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足利義昭が朝廷に将軍職を返還したのは天正16年頃なので、家康が征夷大将軍に就任した慶長8年まで室町時代や戦国時代とは呼べません

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疑問はごもっともですが、足利義昭は将軍のままですが、京都にはいませんでしたし、織田信長は途中で横死しましたが、豊臣秀吉は天下人です。戦国時代も終ってましたし、室町に政権はありません。 織豊時代、安土桃山時代になんの問題もありません。 ちなみに北条氏が実権がありましたが、北条氏は伊豆出身というだけで、北条氏も鎌倉にいて、鎌倉殿がいましたので、これも鎌倉時代でなんら問題ありません。

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その意見に固執するのならば、平安時代が終わっていないという意見にも反対できません。公家政権(摂政関白・右大臣など)は、形式的には江戸時代まで継続しています。しかし何の影響力も政治権能もないですが。 途中にならず者の鎌倉幕府・室町幕府に徐々に財政力(荘園など)を削り取られていきどんどん貧乏になっていきますが、上級貴族の官位官職は平安時代のように続いていたはず。任命権は明治維新まで京都の朝廷に変わらずありました

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