本能寺の変後も足利将軍は存続していたのに、織豊時代とか、安土桃山時代というのはなぜなんでしょう? 家康が征夷大将軍になる1603年まで室町時代または戦国時代でよくないですか?
本能寺の変後も足利将軍は存続していたのに、織豊時代とか、安土桃山時代というのはなぜなんでしょう? 家康が征夷大将軍になる1603年まで室町時代または戦国時代でよくないですか?
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ベストアンサー
他の回答にあるように、足利義昭は織田信長に京都を追放されて以降は「征夷大将軍」の地位にはいますが、何ら「征夷大将軍」の仕事をしていません。 それどころか、自分が京都に戻りたいという事だけに執着して、信長を倒すことだけに精力を使いました。 朝廷は、ただ単にそんな義昭を解任しなかっただけで、義昭に代わる新たな武家の長を求めていました。 そこに現れたのが織田信長です。 天正十年に起こった「三職推任」問題は、関白・太政大臣・征夷大将軍のいずれかに任ずるというものです。 信長が突然弑逆されたため、その後のことは不明ですが、もし信長が征夷大将軍を要望したら、朝廷は義昭を解任して、信長を任じていました。 これらのことから、足利将軍家の足利(室町)幕府は義昭が京都から追放された時点で滅んだと考えるべきだと思います。
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他の方の回答にもありますが、歴史学者の藤田達生氏は、足利義昭が備後国鞆に移った以後のことを「鞆幕府」と言われています。 しかし、それでは矛盾が起きます。 足利義昭が二度目の挙兵をしたのは、元亀四(1573)年七月三日、室町御所を近臣に預けて、京都郊外の宇治にある寵臣:真木島昭光の居城である槙島城に移った時です(『兼見卿記』)。 織田信長はこれを知ると、滞在していた近江佐和山城から大軍を率いて九日に上洛しました(『兼見卿記』)。 信長の上洛を知った義昭は、大坂本願寺を始めとして味方の諸将に挙兵を促しますが、諸将の動きはすこぶる鈍く、十七日には信長自身が大軍を率いて槙島城付近に押し寄せ、近辺を焼き払いました。 すると義昭は、信長に嫡男を人質に出して降伏し、十九日、槙島城を去りました。 蛇足ながら、この時、義昭が人質として出した嫡男は後年僧侶となり「義尋」と名乗りました。
質問者からのお礼コメント
皆様、ありがとうございました。
お礼日時:7/7 19:08