日本史いいかげんでは?

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客観的な公式記録ないですからね。 しょうがないけどね。 あ、訂正あります。夏の陣じゃなくて冬の陣でした。 言いたいことは変わらないけどね。 俺が思うに、実際に戦った人数じゃなくて、それぞれの味方の人数的な数なのかな?それでも男25人に一人はおかしいとは思うけど。

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おかしいです。 元ネタがサバ読んでる。 魏志倭人伝では邪馬壹国は7万戸。魏の場合1戸5人。35万人の人口。 日本最初の戸籍では近畿で人口5〜7万人。 日本書紀では100才超えの天皇多くいる。 関連法反対デモは主題者側と警察発表の参加者数には3倍の開きある。 対立する場合は自分の陣営の数をサバ読む。お互いにサバ読むので、数字合わない。 だから面白いと思う。 ーーーーーーーー 事実が不明な場合は整合性を追求する。 記録が間違いとなる。 水耕米が満州・朝鮮半島経由で日本に伝わったなら、朝鮮半島北上して、満州・朝鮮は米文化になってる筈。 いやらしい考えと言われるが、事実が分からない、間違いを正す唯一の方法ですよ。 戦後、死体がないのに殺人罪有罪になった人が数人いてる。 整合性の積上げです。 似ていますよ。

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関係者が大げさに言うのは分からなくもないけど、ちゃんと歴史学者は考えてるのかな?男25人に1人はないだろう。 西高のヤンキーグループと東高のヤンキーグループが河原でケンカしたとして、西高と東高のすべての生徒や教師の数を合わせてるみたいな感じだと思う。

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石高(米を含めた総生産量)一石につき一人を養えるとされています。 当時の日本の総検地高は凡そ1400万石、日本の総人口を1400万人とすれば丁度上記の説明と合致します。 当時の軍役(諸大名に課せられた賦課義務)は一万石あたり250人の兵を動員することが求められていました。 関ヶ原の合戦前の会津の上杉景勝征討の際に、大老・徳川家康が諸大名に課した軍役賦課は一万石あたり三百人の兵を動員することでした。 実際の動員は、東海道沿いに所領を持つ福島正則、池田輝政は家康が課した賦課より多い一万石あたり三百三十人程度、遠国の細川忠興は一万石あたり百人強でした。 これらの人数は、福島正則の書状に記されており、後年に脚色されたものではなく、それ故に家康が課した賦課を下回る大名の記録も残されてしまったのでしょう。 豊臣方の所領は摂津、河内、和泉の僅か六十五万石程度に加え、所領ではないが、関ヶ原の合戦まで蔵入地(直轄地)で徳川方につくことを拒否した一部の地域。 これ以外はすべて徳川方なので、軍役賦課基準を一万石あたり二百人としても徳川方だけで二十万を動員できます。 豊臣方の兵数ですが、後年の島原の乱における原城に籠った人数は三万以上とされるので、所領から動員した兵を含めれば五万人以上は集まるはずです。 春秋戦国時代の七雄最弱の魏ですら四十万の壮丁がいたとされているので、大坂の陣における動員数は誇張されたものではないと思います。 日露戦争時の日本の総人口は約四千六百万人。そのうち軍属の人は百八万人程度です。 この比率を考えれば、大坂の陣における動員数が有りえない数字ではないと思います。

日露戦争の時代でもそんな統計が出てくるんですか。そのくらいの時代になると信憑性ありそうだけど、軍属って定義はよくわからないけどその数は前線に行った人の数ではないですよね多分。それでも軍人108万人って日本中全ての男の2割ほどだから多すぎな気がする。子供も老人もいるよ。商人も農民もいるのに。