織田信長は浅井長政と「朝倉を攻める場合は事前に伝える」という約束をしていながら、何故その約束を破って勝手に朝倉攻めをしたのでしょうか?

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お礼日時:7/5 19:58

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織田信長の元亀年鑑における 北方遠征、当初は若狭の武藤氏 を討つため、もよおされたこと が近頃の定説として確立している ようです。若狭の佐柿まで織田軍 が達した頃に朝倉軍が越前と若狭 の境界まで寄せて来たとして 若狭の奥に入ろうとする織田軍の 後背地に朝倉軍が配しているのは 脅威であるとして織田軍は向き 変えて越前に侵攻したらしい。 朝倉軍を誘引するため最初は 若狭に攻めたのか、そうで無く 朝倉軍が西進してきたのは織田信長 にとって想定して無かったのか 、どちらなのかは不明。 北方遠征で最初は若狭を攻める と称しているため朝倉は越前の 大名なので浅井に気兼ね、は 無いとの意識が織田信長に あったのかも。

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信長としては、浅井家への配慮のつもり、だったのでしょう。 ただ、それが大きな勘違いだった、という事です。 信長という人の行動を見ていると、やはり、発達障害があるように、 見て取れるので、この場合も、相手の気持ちを理解できず、 間違った行動をとってしまったのだと思います。 この後も、信長は松永久秀や荒木村重などに、次々と裏切られ続けますが、 いずれも、自らの対応の稚拙さで、相手を裏切りに追い込んだ、 という側面があり、最終的に我が身を滅ぼす元となったのだと思います。

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敵を欺くにはまず味方からというし、浅井にしても知らないほうがいいでしょう。

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まず、浅井長政の立場への配慮だと思います。事前に知らされていたら、その方が長政としては、苦しいことになるでしょう。 >その結果、浅井を敵に回しましたし… 長政の動きは、意外に緩慢です。 城攻め中の織田徳川軍は、後方の北近江を遮断されて袋のネズミです。普通は身動きできずに殲滅されるでしょう。 しかし、信長もその配下の軍も、ほぼ無傷で京都に撤退しています。