江戸期幕末から私塾が多く作られ高等な学問を学ぶ者も出ていました。
お雇い外国人の日記その他記録でよく登場するのが、日本人の子ども好きに驚いている箇所です。一例で街の通りには、子どもがあふれ荷車の通りを妨げることがあっても、大人たちは笑顔で子どもの遊ぶ様子を伺いながら、道を避けていくという描写があります。
そんな風土で発展には教育の力、人づくりだと考えた人々が多かったのも頷けます。義務教育を決定した法令「学制」が頒布されたのが、明治5年。文部省はその前年に設置されています。もちろん出発点で問題も多く、義務化定着には遠い道のりがありました。
学制頒布の前年に京都市では64校の小学校が誕生していました。「番組小学校」といわれる町内会が集まり作られた小学校で学区分けがされています。
京都府の援助を足しにしながら運営管理資金はすべて町衆でした。
識字率の高さや寺子屋の密度の高さ、有名私塾の繫栄してきた土地の教育への理解がなさせるものでした。
欧米の義務教育に習ったのは確かですが、英国が日本の2年前に法を制定していて、義務教育の歴史も浅く、義務教育を法文化している国は限られていました。日本でも有償の義務教育には反対も多く、働きでを失うと考えた地方では学制反対一揆が起こっています。
京都のように小学校が充実しだすと、高等教育へのニーズが高まります。その後、京都府知事のテコ入れによって京都府中学校の設立や理化学を研究する機関まで設置されていきました。
福澤諭吉など教育者が見学に訪れ、先取りの教育体制を学んでいます。福澤は「京都慶應義塾」を設立しましたが、入学者が少なく廃校に及んでいます。これは府立中学校への志願者が多いことも影響しました。
義務教育無償化が行われ、その定着化に弾みがついたようです。