「拷問」という言葉に騙されてはいけませんよ
(あくまで江戸限定です。当時は国によって刑法が異なりますからね)
確かに拷問をするには老中の許可が必要ですが…
拷問とは、被疑者を後ろ手に縛って天井から吊るし(これで体重が縛られた腕にかかります)、それを四方から竹ムチで叩く
これが拷問です
ここに至るまでに、むち打ち、石抱き(尖った板に座らせて、石の板を腿に乗せる)、海老攻め(体を屈曲させて、縄で固定する)がある
ここでも「自白」しなかったら(公式の)拷問に至るんです
さらに当時の記録では尋問の時点で、精神的な脅し、平手打ちのなどの暴行、女性には性的脅迫が当たり前のようになされていたとあります
(そもそも江戸の治安維持ははっきりいって機能不全であり、現場での担当は岡っ引きと呼ばれる、与力同心の私的配下が担当し、彼らはやくざ者、元犯罪者です)
だいたい裁判所と警察が一体化している組織ですよ
であれば、推定無罪という概念なんかありえないでしょ
自分たちで捕まえた者を自分たちで裁くのですから
捕まった時点でほぼ有罪が確定してるんですよ
ですから否認するというのは「御上の正しい判断を否定する不届き者」ってなるんです
だから証拠よりも「自白」が重要なんですし、公に拷問にかける前に、どんな手を使ってでも自白させないと恥って話になるんですよ
だって御上の正しい判断に異議申し立てしないのが、あるべき民の姿って、そういう世界なんですから
そういう意味では冤罪なんてありえないって理屈です
御上の判断は常に正しく、その判断を受け入れるのが、民のあるべき姿なんですよ
(個人的に情けをかけたとかどうとか、それこそどうでもいい話なんですよ
問題はシステムで話をしなければなりません
現代は国民一人一人が国家の主権者であり最高権力者であって、国民が権力を制御するために法があるというシステムであるのに対して、当時は極小数の権力が民を支配するため法があるってシステムです
だから個々の人物に情けがあったとかどうとか、どうでもいい話ですし、そんなことを評価ポイントにしてはいけません)