拉致問題の秘匿をしたのは自民党だからでしょ。
国民よりも外交を優先して騒がなかった。
そして、北朝鮮は拉致を続け多くの被害者を生んでしまった。
1977年(昭和52年)9月19日拉致
東京都三鷹市役所勤務警備員男性、
久米裕(1925年(大正14年)2月17日 - 当時52歳)
石川県宇出津海岸付近にて失踪
警視庁公安部と石川県警は主犯格のキム・セホを
《国際手配》し、
北朝鮮に対し所在確認と身柄の引き渡しを要求している。
この事件で石川県警警備部は押収した乱数表から暗号を解読。
1979年に警察庁長官賞を受賞している。
だがこの事実は長年秘匿事項とされ、
単に朝鮮半島に向けて不法に出国をした日本人がいたという
小さな話題として報道された。
1977年(昭和52年)11月15日拉致 横田めぐみさんを始めとし
政府認定でも17人も拉致されている。
平成2年(1990年)5月に警視庁公安部が摘発した
朝鮮総連の元幹部らによる外国人登録法違反事件の捜査過程で、
自民党の《金丸信元副総裁》が
捜査を朝鮮総連などに拡大しないよう、
捜査当局に圧力をかけていたことが明らかになった。
警視庁による朝鮮総連中央本部や朝鮮大学校への家宅捜索は行われず、
捜査当局内部からも捜査が不十分だと疑問の声が上がっていた。
《金丸氏は同年9月に訪朝した。》
「これから列車に乗っていただきます」と言われ、
つれてこられたのが妙香山だった。
日本側の随員は平壌に帰され、金丸一人が別荘に残った。
北朝鮮側の通訳が一人つくだけの「金丸・金」会談で
金の延べ棒を貰ったかは金丸亡き後知る術がない。
しかし、暴れん坊ハマコーはそう言ってたけどね。
外国ではチャンと拉致被害者を助け出した。
1978年7月、4人のレバノン人女性が日本企業に就職させると
だまされて北朝鮮に拉致された。
家族が気づき騒ぎはじめ、1979年4月 2人が
ユーゴスラビアのベオグラードの家族に電話で
「元気で暮らしているから心配しないで欲しい」と言わされた。
1979年8月、再び同じ2人はベオグラードに送られた。
2人はホテルで隙を見て脱出に成功した。
2人の証言から拉致が発覚しレバノン政府が北朝鮮と交渉して
残りの2人 も1979年11月に取り戻した。