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ThanksImg質問者からのお礼コメント

皆様、 わかりやすい解説ありがとうございました。

お礼日時:4/16 19:42

その他の回答(7件)

戦争は悪。平和は正義。 と教えられてる。調和の体制だった。

封建制度が確立されていたこともあると思います。 検地や刀狩りで、武士と農民をはっきり区別しました。 年貢が高くても反乱が起きにくくなっていたと思います。 また江戸が100万都市に発展するなど、経済が成長して大名貸しが可能だったこともあると思います。 幕末に外国船が押し寄せる中、松平春嶽が「参勤交代をしていたら国防費が出ない」と訴え出ました。 しかし、阿部老中が「参勤交代は幕府の骨格。砕くと元に戻らない」と拒否。 島津や譜代大名も阿部老中の見解を支持していました。 出費や外国の脅威をいとわず将軍に仕え続けた武士道精神を、見上げたものよ、といわざるを得ません。

「江戸幕府はなぜ260年間も続いた理由」 ・幕府のお金は一番になった。 ・幕府から命じられる土木工事は、大きなものでは1~2年かかる大工事 でもあった。 (その全ての費用を負担するためには、藩の財力を全てつぎ 込み借金までしなければならない危険もあった) ・「徳川家康の存在は大きいだろう。織田信長や豊臣秀吉に比べれば、才能に秀でた人物とは思えない。だが、生涯を通して、飽くことなく勉強を続けることで、政権の基礎を確立した」という――。 ・譜代大名が政治を、外様大名には領地を、と振り分けることで、徳川家康は、家臣たちが強固な勢力を作る可能性を潰したわけです。 ・譜代大名が幕府の政治を行い、外様大名はそこに関わることができない。 ・譜代大名の代表的な存在として、「徳川四天王」という呼び方があります。(もともとそのような呼び方は存在しなかったのですが、おそらくその原型となったと考えられるのが、新井白石の『藩翰譜はんかんぷ』という書物です) ・現代的視座から多角的な比較・分析を行い、家康が行なった巧妙な分断政策、世界に例を見ない管理システムに迫る。 ・徳川家康はいわゆる「御三家」をつくった。 ・「御三家」は「分断支配」である。(つまり組織を細分化し、それぞれに責任者を置き、責任者同士の競争によって組織全体を活性化し、これを保とうという考え方である) ・徳川幕府の管理職ポストを、すべて複数制にした。 「一人の人間に限定しなかった。老中、若年寄、大目付、諸奉行あらゆる役職ポストに二人以上の人間を配置する。そして「月番」といって、一か月交代で仕事をさせた。周りからみればそれぞれの仕事の評価が比較できる」 ・260年間、明治維新まで、徳川政権の政策担当者はすべて譜代大名である。「外様大名は絶対に幕政に参画することはできなかった。つねに政権のカヤの外に置かれた」

徳川家康から秀忠、家光の政治が確実に諸大名を押さえたから。 そのための政策が確実だった。 大名の配置も譜代大名や親藩は江戸の近くや要所に置き、外様の雄藩は交通の辺鄙なところに置いた。その代表が加賀前田。今の石川県は江戸時代は一番交通の辺鄙なところだった。今でこそ飛行機で1時間だが、当時は陸路も海路も日本列島をぐるりと回る必要があった。中央に日本アルプスがあるからね。 そして武家諸法度などでがんじがらめに取り締まったから。