本作品集に収められた作品は、基本的には「ホラー」ではなく、「ホラーを語るホラー」であり、より正確に言うなら「ホラーを語るホラー形式のマンガ」であると言えるのです。
つまり、普通に「ホラー」なのではなく、「ホラー」というものの「特性」や「形式」を対象化してみせるのです。
その意味で、本作品集に収められたものの多くは「メタ・ホラー」であり、本書は一種の「ホラー批評マンガ」だと言えるのでしょう。
したがって、単純に「怖いマンガ」を期待した読者は、肩すかしを食らって、「何これ?」「ぜんぜん怖くない」といった感じになることでしょう。
ですが、「怖いホラー」を期待して、その見事な「転倒的相対化」が面白いと思った読者は、本書を、類例を見ない「ホラー批評マンガ」として、深く感心することになるのです。
端的に言えば、本書はきわめて「知的な作品集」なのです。
巻頭作の「人形少女」。
語り手の男性(じつは、あもくんのお父さん)が散歩をしていると、少女人形を引きずりながら歩いている少女を見かけます。
少女は、いわゆる「お人形さん」のような美少女なのですが、少女の引きずっている人形の方は、人形らしくない地味な顔立ちの少女人形なのです。
そんなことをぼんやりと考えながら「人形を連れた少女」を目で追っていると、曲がり角のところで、いつの間にか少女と人形が入れ替わっている、ように見えます。
つまり、少女の方は先ほど見た地味な顔立ちの人形そのままで、一方、人形の方は先ほど見た人形を連れた美少女そのまま、なのです。
少々分かりにくいかもしれませんが、要は、少女と人形が入れ替わっているように見えたわけです。
語り手の男性は、目の錯覚かと思いつつも少女を追いかけ、曲がり角の先の少女を再度確認してみるのですが、たしかに少女と人形が入れ替わっているように見えるのです。
この不思議な謎に惹かれ、男性は少女をさらに尾行しますが、少女は「森崎」という家に入っていき、入れ替わりの謎を解くことはかなわなかったのです。
以降、男性は、町内でしばしばその「人形を連れた少女・森崎かんな」を見かけるのですが、やはりその度に少女と人形は入れ替わっています。
しかも、人形の方はどんどん大きくなって、いまや少女の等身大になっているのです。
そんなある時、少女が公園で他の子供たちと遊んでいるその横のベンチで、一人でゲーム機をやっているわが息子(これが、あもくん)を見つけ、後でこっそりと、少女を知っているかと尋ねます。
すると、息子は「森崎さん」を知っていました。
そこで男性は息子に「森崎さんの人形」の髪型は「ロングだったか巻き毛だったか」と尋ねますが、息子は、人形になんか興味がないから覚えていないと、そっけないのです。
では、「森崎さん」の髪型はロングだったかと尋ねると「さあ? なんで森崎のことを訊くの?」と反問されて、ばつの悪さに質問をやめざるを得なくなるのです。
そんなある日、息子が森崎さん宅でのかんなちゃんの誕生日パーティーに招かれるのですが、帰りがひどい雨になってしまい、迎えに来て欲しいと連絡が入ります。
普段なら、そんな面倒なことには乗り気になれないあもくんのお父さんも、森崎家を偵察できると、進んで息子を迎えにいき、森崎夫人から「お茶でもどうぞ」と誘われて、森崎家に上がりこむことになります。
お茶のために招かれた居間のソファーに座っていると、廊下を駆け抜ける「森崎かんな」ちゃんの姿が見えるのですが、その姿も、見るたびに入れ替わっています。
そうこうしているうちに、他の子供たちにも迎えが来て帰ったしまったようで、静かになったなと思っていた居間の男性のもとに「森崎かんな」ちゃんが訪れます。
ここまでは、じつにオーソドックスな「ホラー」だと言えるでしょう。
「等身大の人形と入れ替わってしまう少女の謎」。
はたして、どちらが「本来の森崎かんな」なのか?
あるいは「どちらが」というようなことではない、より深い「真相」が隠されているのか?
読者は、おのずと「想像を絶した恐ろしい真相」を期待するでしょう。
ところが、最後のページで描かれるのは、ロングの地味な顔立ちの少女と、巻き毛の美少女が、仲良く手を繋いで、男性の前に立ち、「どっちだと思う?」と問う姿なのです。
これは、じつに見事に「読者の予測の裏をかいた結末」です。
「ホラー」読者ならば当然「どっちが本来のかんななのだろう」と、その「解答」を期待し、最後まで読み進むのに、本作では、逆に、最後で「謎の人形少女」の方から「どっちだと思う?」と、いわば反問され、解答を与えられないまま、放置されてしまうのです。
つまり、本短編「人形少女」は、「ホラー」そのものではなく、「ホラーの読まれ方」としてのその「構造」を、批評的に示した作品だと言えるのです。
通常のホラーであれば、「超常的な謎」が提示され、主人公がその謎を追求していった果てに、「驚愕的な恐怖の真相」が明かされる、という形式になっています。
つまり、「推理小説」などと同様、「作者による謎の提示と、作者による真相の提示(種明かし)」であり、その意味で、通常の「ホラー」では、読者は「受け身の鑑賞者」でいることを許される、「エンターティンメント(娯楽作品)」なのです。
ですが、この「人形少女」は、そんな「ホラー」の定式の「自明性」を相対化し、批評的に突き放して見せるのです。
そのため読者は、このオチに「えっ!?」と驚かされた後、虚を衝くその意外性に「そんなところに落としたか」と、作者の一筋縄ではいかない発想の妙に驚き、感心させられることにもなるのです。
本作品集には、こうした「ホラー読者の(パターン化された)予想・推測」というものを、見事に相対化して転倒し、読者の肝を冷やさせる作品が多いです。
「お約束どおりのオチを与えて、読者を安心して楽しませる」のではなく、「読者の予想を、想像もしえないかたちで裏切ることで、読者を(知的に)楽しませる」のです。
そのため「ふざけている」という印象を持ってしまう読者も少なくはないでしょう。
「怖い作品が読みたかったのに、ぜんぜん怖くなかった」と。
しかし、作者がこのような作品を描いたのは、きっと「手垢にまみれた、お約束のホラー」には飽き飽きしたからです。
そうした定番ホラーが悪いとは言わないですが、形式に安住して、結局は使い古されたパターンの表面的改装でしかないような作品ばかりを描くのは、クリエイティブ(創造的)な作家には退屈極まりないことだし、そんな作品は、「ホラー」に「ぬるま湯の安住」を求めない読者にも、どこか物足りないものでしかないのです。
「ホラー」と言えば「おどろおどろしいタッチで、気味の悪い人間や風景や化け物が描かれて、血なまぐさく残酷な結末を迎える」そんな作品だと考えるのは、間違いではないにしても、あまりに「惰性的」ではないでしょうか。
そして、少なくとも、ホラーマンガの大御所である諸星大二郎には、そのように感じられたのではないでしょうか。
「単に、気味の悪いものを描いて、読者を怖がらせればいい、なんてものは、もう描きたくない」と。
そもそも「ホラー」とは、堅牢な「日常」や「常識」というものを、食い破り破壊してしまうような存在の出現襲来を描くものであり、その「怖さ」とは本来的に「パターンを裏切る」もの、「人を安住させない」ものであるはずなのです。
ところが、そんな「ホラー」も「商品化」が進むと、「パターン化」され「安心して楽しめる」作品に堕してしまうのです。
しかし、それは「ホラーの堕落」であり、結局のところは「ホラーの自殺」につながるものなのではないでしょうか。
であるのなら、本作品集において、諸星大二郎が行なっている、一見「ホラーへのからかい、嘲笑、相対化」といった行為は、「ホラー」を馬鹿にし軽んじるものではなく、むしろ「ホラー」の本来性を愛するするが故の「パターン化されたホラー」に対する「疑義の表明」であり「批判的批評」だと言えるのではないでしょうか。
本作品集は、「いわゆる・怖いホラー」ではないです。
そうではなく、「手垢にまみれたホラー」の「手垢の殻」を打ち破って、「本来のホラー」を取り戻そうとする「怖い意図」を隠した作品集とでも言えるのではないでしょうか。
とにかく、「読者の裏をかく」その「唖然とさせられるような、超絶的なオチ」に驚いて欲しいのです。
この掟破りに嘲笑的な蛮行の果てにこそ、「ホラー」は、その「自由」を取り戻すのですから。