『天正壬午起請文』などの史料で、井伊家に再就職した武田遺臣の名は、大半がわかっています。
まず人数ですが、史料によってはバラツキがあり、『寛政重修諸家譜』では74人、筆頭家老の『木俣家譜』では170人余りとあります。
これは段階的に武田遺臣を預けられたためで、まず「土屋衆」を70人程度、その後に山県、原、一条衆を預けられていたようです。
また、川手や庵原のような元今川家臣たちは、史料によっては「駿河衆・遠江衆」としてカウントされているようですね。
それでは、各衆で名を残している人物を幾人かピックアップしてみます。
①山県衆
広瀬美濃守
長篠合戦図屏風にも描かれている山県昌景隊の主力。信玄初期の時代から活躍しており、信玄をして「軽薄な事がない武士」と評価されています。
赤備えになった後も、「旗は白でもいい」と特別待遇を受け、戦場では真っ赤な軍団のなかで1人だけ白い母衣で目立っていました。
上田合戦では、敵前で馬を古式に従い乗りまわす「礼ノ馬乗用口伝」を披露し、武田遺臣の実力を見せつけました。
三科形幸
長篠合戦では広瀬とともに活躍し、負傷するも生還。
山県昌景隊の武将として、名が知られていました。
若い井伊直政に忠言を重ね、武田の軍法を基に「井伊軍法」をまとめます。
孕石泰時
花沢城や吉田城攻めで活躍。三方ヶ原では歩行困難な病気でありながら、部下に背負わせて突撃してまさかの1番槍をゲットする戦バカ。
井伊家では旗奉行となります。
この他、石黒将監、石原五郎左衛門、川手などが宿老として名が残ります。
②土屋衆
早川弥三左衛門
関ヶ原で、島津隊をいち早く敵だと看過した人物。
結果論ですが、井伊直政の早死にの原因となります。
築城にも才があり、彦根城築城にも参加。
この他、宿老として、関主水、向山久兵衛などの名があります。
③一条衆・原衆
和田新左衛門
長篠合戦の終盤、一条信龍と馬場信春が織田徳川軍の追撃を防ぐ場面があります。
この時に一条信龍の麾下に「和田某」も奮戦して武田勝頼を逃します。
柏原平兵衛
原衆で、小牧長久手で活躍。森長可を狙撃し討ち取る。(狙撃者は杉山孫六とも)
この他、宿老として根津郷左衛門、深田十左衛門などの名があります。
長くなるので、他の人物は割愛しますが、一部の武田遺臣は戦っていた家康にも知られていました。
彼ら上位の武田遺臣により、井伊軍法の制定や『陣書軍記』などが作られ、初期の井伊の赤備えの創業を支えました。