上に立つ権威に従うべきと言ったのはパウロです。当時のユダヤ人社会では、異邦人の(公正なものも含めて)法律に従う必要はない、と行動していました。これは秩序を乱す行為です。だから、パウロは上の権威に従うように、と書いています。
ただ、パウロだけではなく、イエスも似たようなことを言っています。
それはマタイの福音書23章2~3節で群衆と弟子たちに語った話しです。
「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです」
もし、イエスが権威を破ったり、従わない方がいいと考えていたのなら、行動をまねるなだけではなく、パリサイ人の言うことを聞く必要はない、と言います。また、カエサルの物はカエサルに、という話もしません。他のユダヤ人と同じように、カエサルに従う必要はない、と言うはずです。
何故そうしなかったのかというと、神は秩序を尊重します。また、権威、権力者、上のものを立てることも、取り除くことも人の役割ではなく、神の役割だからです。もし、神が権威をそのままにしていたのなら、キリスト教徒は従う必要があります。しかし、それは神が立てた権威に絶対服従しなさい、という意味ではありません。
不正、不法な法律や出来事などがあったら、戦っていいんです。
イエスは神が立てた権威に戦う方法として、非暴力を説いています。下着を取られたら上着まで、1ミリオン行くなら、もう1ミリオン行きなさい、と。
非暴力によって立ち向かって、弾圧されてり、迫害されたときの報いは神がします。だから、キリスト教徒は平時は上の権威に従いつつ、不正、不法や正さないといけない法律や出来事があったら、非暴力で立ち向かう権利があります。