ベストアンサー
運命とは命の運びと言う意味です。命とは容姿や性格、好き嫌いや得手不得手などその人の個性のことです。人生は一瞬一瞬の判断と行動の積み重ねですが、その判断と行動を決めていのが遺伝子に組み込まれている個性なのです。この一瞬一瞬の判断と行動の積み重ねが運びであり、その一瞬一瞬の判断がその後の人生を決定づけていきます。 カッコウという鳥は自分で子育てしません。他の鳥の巣に卵を産み付けて子育てをさせます。他の鳥に育てられたカッコウの子供は育ての親の真似をせず、見たこともない生みの親と同じように托卵するようになります。これは遺伝子にどういう生き方をするかということが組み込まれているからです。 遺伝子には容姿や背格好だけでなく性格や好きなもの嫌いなもの、運動や勉強などの得意なこと不得意なこと、他には好きになる異性のタイプやどんな病気に罹りやすいか等、その人の個性の全てが遺伝子に組み込まれています。その個性が一瞬一瞬の判断と行動を決めている。判断と行動は遺伝子に支配されているということです。それは生まれた瞬間にその人がどういう生き方をするかがある程度は決まっていると言うことです。したがって運命は生れた時にある程度決まっていると言うことになります。 運命は変えられるかということですが。遺伝子の発現にはある程度幅があり自分の意志で変えられることもあります。遺伝子は母親と父親またその両親の遺伝子も受け継いでいます。現在働いている遺伝子でも環境の変化に合わせて発現する遺伝子が変わることもあるのですから、努力によって不得意なことでも上手に出来るようになったり嫌いだった事が好きになったりするように、自分の意志で発現している遺伝子が変わることもあります。性格も多少は変えることができます。例えば自分の容姿に自信がなくて異性に対して消極的だった人が美容整形して美しくなったことで異性に対して積極的な性格に変われば結婚相手が変わることもあるはずです。結婚相手が変われば運命も変わります。 人が生きていく上でいつも自分の思い通りに生きて行ける人はいません。他人によって生き方を変えられることもあります。そのとき悩みや苦しみが生じるわけですが、生き方を変えられたことが運命ではありません。運命は悩み苦しみに対峙した時、どう判断しどう行動したかがその人の運命なのです。運命を変えたければ迷った時にいつもとは真逆の判断と行動をとれば運命は変わるはずです。また何かの団体に入り、今までと真逆の考え方や生き方をするようになれば運命は変わります。 キリスト教は運命を生れた時に神様がお決めになることになっています。したがって病気になって死ぬのも、事故で死ぬのも、殺されて死ぬのも、すべて神様がお決めになった運命ということになります。そして運命を変えることができるのも神様だけです。神様が奇跡を起こされた時だけ運命を変えることができるのです。九死に一生を得たとき、キリスト教徒は神様が奇跡を起こされたので助かったと考えますが、仏教は運命は変えられるという考え方なので日本人は「運が良かった」という言い方をします。その後に必ず「日ごろの行いがいいから」と付け加えます。 キリスト教は自分で運命を変えることはできませんが仏教は運命を変えることができると考えています。その理由は運命の元になる原因はすべて自分が作っているという考え方に基づいているからです。生まれる環境やどういう親の元に生まれるかが決まることを宿命と言います。宿命は変えられないが運命は変えられるというのが仏教の考え方です。 キリスト教は人生の始まりも結果も神様によって決められていますが、仏教は始まりは決まっているが結果は決まっていません。前世にどんな生き方をしたかによって生まれる場所が決まると考えられています。たとえば金持ちの家に生まれるか貧乏な家に生まれるかで運命は違ってくるはずです。仏教は前世の生き方(宿業)によって生まれてくる場所が決まります。それが宿命です。宿命とは命に宿っているという意味で親から受け継いだ遺伝子や親を含めた生活環境など生まれた場所のことです。宿命は生まれるときに決定付けられているので変えられないが運命は変えることができるというのが仏教の考え方です。生まれた環境の中でどういう生き方をするかで運命は変わるということです。 宿業の業とは行為という意味で業には身・口・意の三業があります。身とは行動のことで、口とは言葉で、意とは思いのことです。思いはいつか行動や言葉となります。この三業を繰り返し行うと宿業となり、宿業が来世に引き継がれて宿命になるというのが仏教の考え方です。家族を含め人生に大きな影響を与える出会いが宿命です。前世の行いは死んだら消えるのではなくそのまま来世に引き継がれ、自分の言動は全て自分に返ってくる(因果応報)ということを示しているのです。生まれ持った才能も宿業なのです。 運命は宿命によってある程度決まるが、宿命は前世の生き方である宿業によって形成される。これが繰り返されることを輪廻転生と言います。 不慮の事故や犯罪に巻き込まれて死ぬのは運命か、たまたまの偶然なのか。 仏経では殺されたり事故で死ぬことに対してどのように書かれているかという点ですが、恨みによって殺されるのは宿命になりますが、事故や自然災害で死んだ場合、私の知る限りでは何も書いてありません。多分偶然と言うことになると思います。仏教は生命は永遠であり、生まれ変わりを繰り返しているという考え方をします。釈迦が魚であったことが有るということも書いてあります。生物は食物連鎖で食べたり食べられたりを繰り返しています。その場合食べられて命を無くすことを運命ととらえるか、たまたまの偶然ととらえるかによると思います。
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質問者からのお礼コメント
素晴らしい文章をありがとうございます。
お礼日時:10/2 19:23