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2023/10/5 0:41

66回答

邪馬台国の時代、日本の形はどうなっていましたか?

日本史150閲覧

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お礼日時:10/9 0:48

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邪馬台国の時代の日本の形は現在よりもかなり内陸に海岸線がありました。 例えば、戦国時代であっても江戸城、名古屋城、大阪城などを見ればわかる通り、海、海岸線に近いところに建てられていました。 当然、干潟や湿地帯等及び河川の形状等も現代とはかなり違っていることを理解せねばなりません。 従って、邪馬台国時代の日本の地形等はしっかりと理解認識してから論ぜねばならないですね。

縄文海進から今の状況に戻りつつあった時代。 ただ、海岸線は所によって今よりも奥にあった。湿地帯も広がっていた。

縄文海進は日本周辺の特異な現象ですが、ボーリング調査が各地で行われ精緻な分析が進んだところでは確認されています。関東だけではありません。 九州北部においても確認され、直方市、福岡市、唐津市で精緻な海進状況が確認されています。

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飛鳥昭雄さんの説だと、本州がまだ分かれててしかも南北が逆だったって仮説がありましたね。それだと渡航行程の矛盾が解決するという説。 地質学的にはそういう時期がたしかにあった。もちろん、常識の範囲では遥かな古代の話で、「昔は大陸移動が今とは違ってもっと急激だった」という前提で成り立つSF級の説ですけど。

ほぼ現在と同じだが、 ・埋め立て地は存在しなかった。 ・地下水の汲み上げすぎによる地盤沈下はなかった。 ・場所によっては地殻変動を考慮する必要がある(最大10m)。 ・場所によっては海岸が潮汐で海食が起きたり、砂が堆積したりした。 ・河川の流路が変わった。 現在との違いとしては、 ・大阪の中心部が河内湾~河内湖であった ・奈良盆地の中央部には奈良湖があった ・博多湾や糸島半島の付け根は現在よりも数km内陸だった ことが有名。

今とほぼ変わりませんよ。 今の形になったのは何万年前と言う話なので。