
定免法について基礎的な質問です。
2009/8/1918:34:55
定免法について基礎的な質問です。
2つ質問です。
①定免法は、ある年貢率を決められて、一定量の年貢を納めた。という感じだと思いますが、年貢「率」が決まっていたのなら、何%とかが固定してるのであって、納める量は取れ高によって違うのではないのですか??
②あと、江戸も後期になると、生産力アップしたにもかかわらず、定免法ゆえに年貢量が変わらず、幕府の財政は苦しく・・・と聞きます。でも、定免法は「一定期間(5年、10年など)、ある年貢率で納めること」だと思うんですが、200年も同じ率じゃなくていいのだから、10年後にでも、率を上げればよくないでしょうか?リアルにずっと同じ率で取っていたんでしょうか?
頭がごちゃごちゃします。お願いします。
ベストアンサーに選ばれた回答
2009/8/2309:04:37
1.定免法
定免法というのは、これまでの村の生産量(「村高」)を基に、一定の「年貢率」で年貢を徴収する方法です。
したがって、当然「村高」が上昇すれば、比例して年貢高も増えることになるのですが、ここで問題なのは、この「村高」というのが「実際の生産量」ではなく「書類上の生産量」に過ぎないという点です。
教科書で、検見法から定免法・有毛検見法に変化した云々と記されているのは、主に幕府直轄領の話ですが、幕府領では村の「実際の生産量」を検査する「検地」というものは、18世紀の初めにはほとんど行われなくなっています。
したがって、例えば前回検地が行われた17世紀末の時点では、X石の生産高しかなかったA村の農民が、その後にB新田を開発したため、実際のA村の生産高が向上していたとしても、次に新田の検地が実施されるまではA村の生産高はX石のままでした。
また、18世紀・19世紀というのは、農業の技術が大幅に進歩した時期と考えられており、二毛作または二年三作などの作式方式が普及したこともあって、一般的に収益性は向上した時代です。
生産性が向上して、村が豊かになると、農産物を加工して商品として販売する(例えば酒・味噌など)といったことも行われますが、そういった収入などももちろん「村高」には反映されません。
検地には予算がかかり過ぎるというのが検地が行われなくなる主な理由ですが、そのために年貢率を多少高くしたとしても、基準となる「村高」が数十年前の生産量を基に算出された「書類上の生産高」ではどうにもならないわけです。
2.これは、「1」で記したこととも関わって、年貢率を僅かに上げたところでほとんど意味が無かったということもありますが、「年貢」をどのような方法でどれだけ徴収するか、ということに関して、領主側(幕府領では代官など)が主導権を取っていたわけではない、ということがあります。
多くの場合、年貢率を見直す時期になると、村の側から「こういう方法で、これだけの率で年貢を徴収してください」という上申文書が出され、領主側ではそれを検討してそのまま許可するか、あるいは別の提案をして何処かで妥協点を見出す、という方法が採られていました。
村側では、徴収される量を減らしたいと考えて工作を行うのは当然ですし、それとどこで妥協するか、というのが領主側の基本的な姿勢でした。幕府領でも諸藩でも、村方を治める代官というのは、出張所に出向している転勤族の官僚ですから、村と揉めたりすると即クビになっちゃいますので、とても時代劇のようにはいきませんでした。
以上、ご参考になれば幸いです。
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ベストアンサー以外の回答
1〜1件/1件中
2009/8/1923:29:45
①、年貢率で納めるのは「検見取り法」なのです。実際に収穫前にサンプル調査をして、この田は一反当り何斗何升の収穫があるから、それを四公六民で。。。とやる方法。(またはそれに見合うように定免記載の年貢を三公、二公に変更する)
定免法の場合は、田の面積と種類(上田、中田、下田、下々田、悪田)が記されていて、検地当時の反当りの予想収量を元にして、(予想収量)X(単位面積)X(種類による減収率)X(四公六民)であらかじめ年貢の高が決まっていますから、豊作ならば年貢は一定量なので農民のもうけが増えるわけです。
したがって農民は、不作、凶作であれば「検見取り」を申請し、平年作以上であれば定免法で年貢を納めていたわけです。
ただし、こうした際の検見にかかる費用は農民(村方)の負担になります。
②、江戸時代も何回か検地が行われ、その都度予想収量や面積、種類の評価が修正されて行きましたが、それらの検地には境界争いなどの紛争がつきもので反対が多く、また幕府の費用もかさむ。大名家の知行地などは大名の自治権が及ぶために統一的な検地ができない。等々の理由から太閤秀吉がやったような全国的な検地作業は実施されず、新田開発地域や新たに天領となった地域といった限定的なものが多かった。
十年に一度の検見も、実際には米作りのことなど知らぬ代官による形式的なものがほとんどだったようです。むしろ欠納に対する取締強化の方に重点が置かれました。率も面積も田の種類も太閤検地の時代から変わっていない例は山ほどあります。
大名や旗本知行地では、年貢の率を上げた(五公、六公、七公など)結果、一揆や農民の逃散などが生じそのために幕府が動かなければならない事態も生じていますので、幕府としても全国的に増税をした場合に幕府の根幹を揺るがす一揆などが生じる方が幕閣たちには怖かった。というのが本音でしょう。また全国検地をするだけの財源もありません。それで、文句の少ない新田開発等の奨励の方に力を入れて行ったわけです。結果は年貢総量は増えても、民間の流通量もそれだけ増えているので幕府財政の苦しさは変わらなかった。ということになります。
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