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越後長岡藩のガトリング砲について質問です

分水嶺さん

2009/9/310:37:44

越後長岡藩のガトリング砲について質問です

越後長岡藩は新政府軍に敗れた時、新政府軍の手に渡らないようにガトリング砲を川に沈め、その場所は不明だと聞きましたが、新政府軍に「我々を苦しめたあの大砲はどこだ?あれを使って残りの東北諸藩をやれ。」などと言われなかったのですか?

また、140年経った現在も、長岡市内かその周辺のどこかの川底に、かつてガトリング砲だった鉄の塊が沈んでいるのでしょうか?
とうの昔に朽ちるなりして、跡形もなく消滅しているでしょうか?

そして、もう一つ。越後長岡藩が保有していたガトリング砲は6砲身だけですか?
復元された砲の写真を見たのですが、解説に「長岡藩が保有していた砲のうち、砲身が六つのもの」とあったので、6砲身以外もあったのか気になりました。

回答お待ちしております!

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fuj********さん

2009/9/312:19:21

(1)
長岡藩が、保有していたガトリング砲2門を最終的にどうしたのかは『不明』です。新政府軍がこの極めて高価で珍しい兵器を戦利品として鹵獲していないのは確かですので、
『新政府軍の手に渡らないようにガトリング砲を川に沈めた』
という想像が生まれているのでしょう。

(2)
ガトリング砲というのは、大砲と同等の重量ですから大変重いもので、ウマで牽引しないと運べなかったと思われます。また、専用の銃弾がついていないと使うことが出来ません。専用の弾は口径1インチ(254ミリ)だったようですが、このような弾薬を使う火器は当時は他にありません。長岡藩がガトリング砲と一緒に購入した銃弾がなくなればそれで終わりになったでしょう。
長岡藩は、新政府軍に完全に包囲され、わずかに会津藩に続く山道だけが残っていたようで、河合継之助はその山道の途中で戦傷が悪化して死去しております。
長岡藩が降伏する寸前まで、ガトリング砲が壊れずに、また弾薬が尽きずに無事であったとしても、険しい山道を、政府軍の目を逃れて例えば会津藩に運ぶのは 『不可能』 だったと思います。
なお、ガトリング砲の銃弾が数千発もあれば 『トン単位』 の重量になります。この点も考慮して下さい。

また、長岡藩のガトリング砲は、慶応4年(1868年)5月19日の長岡城下神田口の攻防戦で新政府軍に向かって発射されたとのことですが、具体的に何人の新政府軍の兵士を倒した、25ミリの強力な弾丸で重傷者が続出したということは記録されていないようです。

(3)
長岡藩は、幕末日本で活躍した武器商人であるスネルが日本に3門輸入したガトリング砲のうち2門を購入しました。
スネルが輸入したガトリング砲は
「360発 元込め 6つ穴のガットリング砲」
であったと記録されております。

ですので、現存する史料で判断する限りは「長岡藩保有のガトリング砲は、2門とも6砲身」と判断するしかありません。

参考資料:
「たんたんたたた―機関銃と近代日本」 (光人社NF文庫)
兵頭 二十八 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/4769826133/

質問した人からのコメント

2009/9/8 11:24:49

そもそも川に沈んではいないのですね。
会津藩に運ぶことが不可能なら、降伏後に他の東北前線に運ぶのも、もはや新政府の目を欺かずに堂々と運べるとは言え、できないのでしょうね。
しかも、ガトリング砲は強いとは限らないのですね。
ありがとうございました!

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